『備忘録』だとか、『日記』だとか。

日々のあれこれを記録する自己満足日記帳

『成長』とか、『広い世界』とか。

昼に散髪のために理髪店に向かっていたら道中お祭りの準備をしていたので、用事を済ませた帰り道に少し屋台によって買い食いをするなどした。今日からお祭りとは全然知らなかったので一人出店をひやかすだけにはなったが、それでもやはり祭りは楽しいものだ。この週末は祭囃子を聞いて過ごすことになりそうだ。

 

そんなこんなで夏休みになった。昨日今日は休みの解放感で終日遊んでばかりいたが、そろそろ生産的な活動も始めていかねばなるまい。

休みの期間は、バイトやインターンなど、他にもいくつかやることがあるので基本的には都内で過ごす予定だが、八月の後半は一週間ほど地元に帰省する予定になっている。一人暮らしにはもうだいぶ慣れたし満足もしてはいるが、それでもやはり長いこと帰省していないと寂しさの一つも感じてしまうものだ。地元では中高の頃の友人とゆっくり酒でも飲めたらいいなと考えている。

こう言ってしまってはなんだが、私の地元である熊本は今住んでいる東京と比べると、やはりどうしても見劣りしてしまう。もちろんいいところも沢山あるし、私自身故郷である熊本への愛着も強い。しかし現実問題として、熊本と東京とでは東京の方が見て回れるところも多ければ、利便性も高いのだ。こんな生活があることを知ってしまった以上、元の地元での生活に戻ることはそう簡単に出来そうもない。

小学生の頃、校則で許可なく学区外に一人で出てはいけないという決まりがあった。優等生だった私はそれはもうきっちりと規則を守っていたので、校区外れにある自宅から徒歩10分ほどで行けるTSUTAYAへも、校区外ということで親と同伴でなければ行かないようにしていた。もちろん家族でどこそこへ車で出かけることは多々あったが、それでもあの頃の6年間、私の生活は小学校の校区内でほとんど完結していたと言っても過言ではない。

中学に上がり、校則の縛りもなくなったので自転車でいろんな場所へ行く機会が増えた。陸上部の大会で遠征することや、友達と遠くのショッピングモールへ出かけることも増え、私の活動領域は校区内から市内全体へと広がっていった。ふとしたときに、よく私はこんな狭い校区の中で6年間も満足に生活していたものだと、そんな呆れにも似た感情を覚えたことを覚えている。

高校の頃は、中学に比べると特別行動範囲が広くなったということはなかったが、それでも様々な機会で今まで行ったことの無いような場所にも赴くようになった。

そして現在、大学進学に伴い上京してきた私は、東京で多くのことを見聞きし、学び、経験している。一口に東京とは言っても、広い交通網のおかげもあって、千葉や神奈川、埼玉などその行動範囲は多岐に渡る。東にイベントの会場あれば、行って物販を買い漁り、西に友人との約束あれば、行ってつまらないから帰ると言うといった具合だ。いやそんなアクティブな方じゃないし簡単に帰りもしないけどね?

東京はやはり便利で、その生活を知ってしまった以上簡単に熊本に戻れるかと問われれば、なかなか難しいと答えざるを得ないだろう。10年前、たしかにあの狭い校区内で満足している自分はいたかもしれない。けれど、広い世界を知った今、もうあの頃のように戻ることはできないのだ。それは成長と呼ぶには、少し悲しい変化であるような気もする。

蛙は大海を知った。もう井戸には戻れない。ならばせめて、あの頃の自分に、井戸の中の自分に誇れるように立派な蛙になりたいと、そう願うばかりである。

 

きっともっともっと広い海が、未来で私たちを待っているのだから。

 

2019.08.02 都内某所にて