『備忘録』だとか、『日記』だとか。

日々のあれこれを記録する自己満足日記帳

『連絡を取り合う』とか、『顔を合わせる』とか。

今日は久しぶりにビックリするほど二度寝して、きちんと目が覚めたのは午後の二時近くだった。遅くまで作業していたとはいえ、こんな時間に起きるのでは結局効率が悪い。反省反省。夜更かしは効率が悪いと分かっていても、ついやってしまっていけない。

 

七月七日、本日は七夕だ。

せっかく年に一度、織姫と彦星が顔を合わせて会える日なのに、あいにく東京の空模様は冷たい。一日中しとしとと雨続きで、天の川の両対岸にいるであろう彼ら彼女らを思って悲しい気持ちになった。早く梅雨が明けてくれるといいのだが。

昔は年に一度しか会えないなんて随分気の長いことだと思っていたけれど、こうやって少し歳をとってみると、年に一度しか会えないなんてのは、案外日常の中にもありふれているものだと感じる。連絡こそたまにとりあっていても、一年に一度くらいしか顔を合わせる機会のない友人なんて、いくらでもいる。愛し合っている二人ならば、話も変わってくるのだろうが。

今は手紙や電話に加え、SNS上のメッセージの授受、Skypeなどのテレビ電話など、離れたところにいても連絡を取り合う手段は多種多様に存在する。無理に顔を合わせなくても、下手なご近所づきあいよりずっと密な関係を築けたりもする。携帯も何もない時代に比べれば、離れたところで生活することの弊害は、昔に比べてずっと少なくなったのではないだろうか。

しかし、やはりその場にいて、顔を合わせなければ分からないこともある。

私の実家はすぐ隣に叔母の家が建っており、従兄妹やその飼い猫が住んでいるのだが、最近その猫の元気があまりないらしい。すいぶんおばあちゃん猫なので仕方のないことなのだろうけど、もうそんなに長くもないのかもしれない。叔母や従兄と電話で話すことはあっても、猫と連絡を取り合う手段はない。テレビ電話を繋いでもらっても、多分向こうは私のことを認識出来ないだろう。

そういったとき、私は無性に実家に帰りたくなる。帰ってプリン(猫の名前)の頭を撫で、彼女の気の抜ける鳴き声を聞いて、一緒に日向ぼっこしたい気持ちに駆られる。こればっかりは、遠くにいては叶わない。電車で二時間、飛行機で一時間半、車で三十分移動しなくては得られない時間が、確かにある。

去年末に亡くなった祖母も、最後の方は認知症がひどく、とても電話やなにかで連絡を取れる状態ではなかった。顔を合わせてすらほとんど認識してもらえない状態で、それでも年に二、三度は両親と一緒に顔を見せに行っていた。最期は、施設の中で穏やかな時間を過ごす祖母と、結局半年も顔を合わせてない間に今生の別れとなった。

確かに今の時代、連絡自体は取ろうと思えばいつでも取れる。離れていても、昔に比べたらきっと、心と心の距離はずっと近くなった。

それでも、確かに側にいなければ伝わらないもの、得られない時間というのは存在するわけで。

 

顔を合わせて話が出来る。その、当たり前だがありがたい事実に、今日も感謝していきたい。

 

2019.07.07 都内某所にて