『備忘録』だとか、『日記』だとか。

日々のあれこれを記録する自己満足日記帳

『目標』とか、『成長』とか。

前回の記事投稿からひと月、今日も今日とて「それなり」に生きている。

 

ここひと月ほど、友人たちと懐かしの写真を引っ張り出してきては見せ合って、懐旧にふけるような場面が妙に多い。

最近、携帯を機種変したのでデータ移行の際に〜というようなシチュエーションだったり、友人がPCのデータ整理していた際に見つけて〜というような経緯が積み重なっての話ではあるのだが、もしかしたら24という年齢が丁度“そういう”タイミングなのかもしれないと、そんなことも思う。

社会に出ている、出ていない、目標がある、漫然と生きている、そうした違いは人それぞれ少しずつあるのかもしれないけれど、少なくとも『未来を真正面から見据える』という時期を多くの人が通過したこのぐらいの年齢に、一度ゆっくりと過去を振り返って見るのも、意外と悪くないものなのかもしれない。

 

高校の時の写真を見てみる。腑抜けた顔をしているが、どの写真も、意外と良い表情をしている。

あの頃の自分は、いつも何かを敵視して、それに憤るように、怯えるように生きていたような気がする。その対象が、“社会”だったのか“将来”だったのか、或いはもっと別の何かだったのかは今でも分からないけれど、少なくともあの頃の私は、記憶の中の私は、もっとつまらなさそうな表情をする子供だったような気がしていた。

なんだ。そうか。あの頃からたいして成長していない私だけど、だからこそ、あの頃も今のように、根拠のないポジティブさだけは持ち合わせていたのだなと、今になって気づく。

 

成人式の写真を見る。まだまだスーツに”着られて”いる20歳。我ながら本当にパッとしない面構え。

あの時は、かつての友人たちのあまりの変貌ぶりに目を回し、変わらない優しさに救われ、多くの友人たちとの交流を通して、改めて『自分自身』と向き合った時間だったように思う。同じだけの時を積み重ねた人たちの成果を目の当たりにして、帰りに友人とドリンクバーで「やってらんねえな」とくだを巻いた時間は忘れられない。

思えば成人式の時の写真すらも、すでに3年以上も前のものだ。社会から『成人』『大人』とみなされてからかれこれ4年近くも経つのに、いまだにその実感は湧いていない。困りものである。

 

他にも、免許合宿に行った時の写真、家族旅行の時の写真、なんでもない日常の中の写真。たくさんの”私の記録”がそこにはあった。

 

翻って、今の私。

鏡を見てみる。

鏡の中にいるのは、無精髭の生えた、ボサボサ頭の、つまらなさそーな顔をした、私。

リモートワーク中心だし、会議の時はビデオもつけないし、こんなもんでいいかって妥協した風貌の、今の私。

 

あの頃の私に、私たちに、今の私を見せたら。

喜ぶかな、悲しむかな、怒るかな、笑うかな。

 

どんなふうに思われたって、これが今の私ですと、私は胸を張ろう。張るしかないのだ。

その全ての感情を背負って、私はまた次の10年へと向かうよ。

 

残念でした、過去の私たち。

今に見とけよ、これからの私たち。

 

2021.06.24 都内某所にて