『備忘録』だとか、『日記』だとか。

日々のあれこれを記録する自己満足日記帳

『考え事』とか、『思い込み』とか。

少し、考え事で頭の中がゴチャゴチャしている。

まだ全然思考が整理できていなくて、今日の記事もあまり長くは書けそうにない。申し訳ない。

 

人間、よほど達観している人間でもなければ悩みや考え事の一つくらいあるものだろう。

私も大した人間ではないけれど、人並みに悩んだり考えたりすることくらいある。その上最近は暗い事件も多く、つい湿っぽい思考にとらわれたりもしてしまう。

悩むこと自体は決して悪いことではないと思うけれど、それで気持ちが沈んでいては仕方がない。暗い気持ちの時は、思考までもが重苦しくなることもしばしばだ。へんな思い込み、妄想で不必要に気持ちばかりが沈んでいく。これではいけない。考え事をするなら、せめて建設的であるべきだ。

 

少し無理にでも前向きに、気軽に、世界と向き合っていきたいものだ。

 

2019.07.20少し過ぎ 都内某所にて

『感情』とか、『日常』とか。

いろいろな想いがあると思う。意見があると思う。感情があると思う。

けれど、今はただ、黙することを選ぼう。

私自身、心を落ち着ける時間も必要だし、この話題一つで気持ちが穏やかでなくなってしまう人もいることだろうから。

今はただ、亡くなられた方々のご冥福と、安否の分かっていない方々の無事を心の底からお祈り申し上げます。

 

感情というのは難しいもので、時に爆発的な正のエネルギーを生み出すこともあれば、漫然と負のエネルギーを生み出し続けることもある。胸糞悪い事件が起こった後は何をするにも気持ちが乗らなくて、十分なポテンシャルを発揮できないことだってあるだろう。

しかし、どんな悲しい事件が起きても地球は回るし、明日は来る。私の日常はそう易々とは変わらないし、明日がテストって事実も動かざるものだ。ならば、いつまでも考え込んでいるわけにもいかない。

たしかに事件の収拾をつけようと頑張っている人たちはいる。家族を亡くして悲しんでいる人たちもいる。けれど、今私自身がここでくよくよしていても、何も変わりはしない。何も助けになれることはない。

ならば今はせめて、自分にできることを一つずつやるだけだ。自分には関係のないことだと切り捨てるわけではない。けれど、今が自分の出番でないことも確かだ。私はただ、試験の準備を黙々と進めなければならない。

必要になれば、寄付でもなんでも自分に出来る力添えを、全力で行えばいい。それまでは、まずは自分の生活を第一にしていようと思う。

気分が乗らないなら、好きな歌を聴けばいい。美味しいものを食べればいい。感情のコントロールの仕方は、自分自身が一番よく知っているはずだ。不謹慎なんて言わせておけばいい。気が向かないのも分かる。けれど、無理やり前を向くための、感情の着火剤だと割り切るのが大事だ。人間はやっぱり、良い気分の時の方が仕事だってなんだって効率よくできるように出来てるのだから。

それでもダメなら。無理せず休もう。どうしても気分が乗らない時だってあるさ。

 

まずはどんな時でも、自分を第一に。

 

2019.07.18 都内某所にて

『好き』とか、『熱意』とか。

また少し投稿があいてしまったが忙しい時期なので何卒ご容赦を。

課題、日課、テストの準備...etc

やらなければならないことは多いが、一つ一つ丁寧にこなしていきたい。

 

先日、今年ボードゲームの会社に就職した先輩が顔を見せてくれた。

その際、現在先輩が個人で制作中だというカードゲームを持ってきて試遊させてくれたのだが、システム面など非常にクオリティが高く、時間を忘れて楽しくプレイさせてもらった。ちなみに途中までは非常に調子よくプレイしていたのだが、終盤で一緒にプレイしていた後輩たちから結託してボコされ、最後はぐうの音も出ないほどの最下位に落ち着いた。絶対に許さない。

試遊ということで、先輩はプレイ中も僕らプレイヤーからの意見を積極的に募り、システム面などのさらなる改善を考えていて側で見ていてその熱意に驚かされた。普段は割とちゃらんぽらんなイメージのある先輩だったが、こう言った好きなことに対する情熱は本当に見習いたいところがある。

『好き』に全力を出せる人間を、私は尊敬している。

好きなことは、たしかに私たちの生きる理由で、原動力だ。しかしだからといって、好きに自らのあらゆるものを捧げられるかと問われれば、思わず思い悩むという人もいることだろう。かく言う私がそう言ったタイプで、どんなに好きなものを目の前にしても、ついかかる労力やコスト、保身などを先に考えてしまう。情けない話、“好き“の熱量よりも自分の身を優先してしまうのだ。

しかし、世の中には、確かにいる。周囲から見たらなんだか馬鹿らしく見えるほど、自分の“好き”に一生懸命な人間が。彼らは自分の“好き”に金を惜しまず、時間を惜しまず、労力を惜しまない。好きのために身を粉にして働き、寝る間も惜しんで時間を注ぎ、休日の貴重な時間すら費やすことを厭わない。そういった人間の人生は、どれだけ輝いているのだろう。

好きの熱量で、何か創作物を作ったり、記録を残したり、プロと見まごうスキルを体得したりと、好きに一生懸命な人は本当にカッコいい。それは“好き”を自らの最上に据えているからこそ、出来ることだ。そうまでいかなくても、身銭を切って、心血を注いで”好き“に向き合う人間を、笑う資格のある人間などいないのだ。

 

何かに傾ける、その情熱を大切に。

 

2019.07.16 都内某所にて

第60回:『使ったり』とか、『使われたり』とか。

タイトルは全然まったくこれっぽっちも関係ないが、なんだか急に江ノ島に行きたくなってきた。鎌倉自体は行ったこともあるが、残念ながら江ノ電で鎌倉高校より先へは行ったことがないので、一度ゆっくり観光にし行ってみたいものである。

 

最近、スマホを家において外出する機会が増えた。

ひと昔前までは、文字通り肌身離さず携帯電話を携帯していたものだが、最近は普段使いする端末が増えたおかげかスマホへの依存度が下がり、気づけばスマホを置いて外出しているという場面も増えた。実際、音楽を聴く程度ならウォークマンなどで事足りるし、調べ物もとっさにできないのは少し歯がゆいが、どこかにメモを取って帰ってから確認すればいいだけの話でもある。意外とスマホがなくても困らないという場面は多い。

さすがに遠出するような機会であれば、きちんと携帯もしていくけれど。

高校の頃は、母にスマホ依存だなんだとよく小言を言われていた。実際、日がな一日スマホで、やれSNSだやれ動画だやれソシャゲだと、無限に時間を浪費していたような気がする。あの頃はこの小さな箱に、世界の全てが詰まっているような気さえした。実際には豊かな実世界の片鱗を、スマホを通じて覗いていたというだけの話なのに。

あの頃は、本当にスマホというガジェットにいいように使われていたような気がする。今がどうかと聞かれれば、まあそれもあまり自信はないのだが、少なくともあの頃の自分を客観的に見れるくらいには適切な距離を保てているのだと思いたい。

今はガジェットの数も増え、それらを日々なんとか使いこなしながら生きている。パソコンで課題をこなしながらiPadで調べ物をし、携帯で友人と連絡を取り合いながらウォークマンで音楽を嗜むなど、それパソコンとかiPad一つでも事足りるくない?と言われればぐうの音も出ない。

しかし依存先を分散させることは大事だ。これはガジェットに限らず、実生活でも応用の効く教えであるようにも思う。一つの物事に依存していると、いざというときに応用がきかなくて困ることもある。何より一つのガジェットに依存していると、いつのまにか自分が“使われている”側に回っていることすらあるのだから。

 

適材適所、必要な場面で必要なものをきちんと使いこなして生きたいものだ。

 

2019.07.11 都内某所にて

『世界』とか、『関心』とか。

課題に飽きて、だんだん課題に向き合う時間より作業用BGMを探す時間の方が増えてきた。これではいけないと思いつつも、結局無限の動画の海に漕ぎだしてしまう哀れな大学生なのであった。

 

YouTubeを作業用BGMにしていると、たまに思いもよらない出会いや発見がある。

最近は、今までまったく興味のなかったマジックの動画を見てよく唸っている。大半は、何だそんなタネなのかというものばかりだが、だからこそそれをホンモノに見せるマジシャンたちのテクニックに驚かされる毎日である。

YouTubeに限らず、インターネットの広大な海には私の知らない、思いもよらない知識や発想、趣味や世界がたくさん広がっている。もちろん中には賛同できない意見、興味を持てない事柄、そういったものもある。しかし一方で、私の視野を広げてくれる記事、私の興味をかきたてる話、私の世界を豊かに色づけてくれるたくさんの事柄が転がってもいる。

インターネットは窓だ。広い世界と私をつなぐ窓だ。世界は広大で、色豊かで、私のまだ知らないたくさんの事柄に溢れている。それをこれだけ容易に知ることの出来る今の時代は、きっとすごく恵まれているのだろう。

けれど、知らない世界に触れるのが昔に比べてずっと容易になったとは言っても、やはり自ら興味を持って覗いてみなければ、その世界は顔を覗かせてはくれない。興味・関心をもって、積極的に覗いてみればこそ、応えてくれるたくさんの物事がある。

どうか、知らない物事に手を伸ばす、その気持ちだけは忘れないでいきたいものだ。

 

そんなわけで、課題もあるので本日はこのくらいで。

 

2019.07.09 都内某所にて

『連絡を取り合う』とか、『顔を合わせる』とか。

今日は久しぶりにビックリするほど二度寝して、きちんと目が覚めたのは午後の二時近くだった。遅くまで作業していたとはいえ、こんな時間に起きるのでは結局効率が悪い。反省反省。夜更かしは効率が悪いと分かっていても、ついやってしまっていけない。

 

七月七日、本日は七夕だ。

せっかく年に一度、織姫と彦星が顔を合わせて会える日なのに、あいにく東京の空模様は冷たい。一日中しとしとと雨続きで、天の川の両対岸にいるであろう彼ら彼女らを思って悲しい気持ちになった。早く梅雨が明けてくれるといいのだが。

昔は年に一度しか会えないなんて随分気の長いことだと思っていたけれど、こうやって少し歳をとってみると、年に一度しか会えないなんてのは、案外日常の中にもありふれているものだと感じる。連絡こそたまにとりあっていても、一年に一度くらいしか顔を合わせる機会のない友人なんて、いくらでもいる。愛し合っている二人ならば、話も変わってくるのだろうが。

今は手紙や電話に加え、SNS上のメッセージの授受、Skypeなどのテレビ電話など、離れたところにいても連絡を取り合う手段は多種多様に存在する。無理に顔を合わせなくても、下手なご近所づきあいよりずっと密な関係を築けたりもする。携帯も何もない時代に比べれば、離れたところで生活することの弊害は、昔に比べてずっと少なくなったのではないだろうか。

しかし、やはりその場にいて、顔を合わせなければ分からないこともある。

私の実家はすぐ隣に叔母の家が建っており、従兄妹やその飼い猫が住んでいるのだが、最近その猫の元気があまりないらしい。すいぶんおばあちゃん猫なので仕方のないことなのだろうけど、もうそんなに長くもないのかもしれない。叔母や従兄と電話で話すことはあっても、猫と連絡を取り合う手段はない。テレビ電話を繋いでもらっても、多分向こうは私のことを認識出来ないだろう。

そういったとき、私は無性に実家に帰りたくなる。帰ってプリン(猫の名前)の頭を撫で、彼女の気の抜ける鳴き声を聞いて、一緒に日向ぼっこしたい気持ちに駆られる。こればっかりは、遠くにいては叶わない。電車で二時間、飛行機で一時間半、車で三十分移動しなくては得られない時間が、確かにある。

去年末に亡くなった祖母も、最後の方は認知症がひどく、とても電話やなにかで連絡を取れる状態ではなかった。顔を合わせてすらほとんど認識してもらえない状態で、それでも年に二、三度は両親と一緒に顔を見せに行っていた。最期は、施設の中で穏やかな時間を過ごす祖母と、結局半年も顔を合わせてない間に今生の別れとなった。

確かに今の時代、連絡自体は取ろうと思えばいつでも取れる。離れていても、昔に比べたらきっと、心と心の距離はずっと近くなった。

それでも、確かに側にいなければ伝わらないもの、得られない時間というのは存在するわけで。

 

顔を合わせて話が出来る。その、当たり前だがありがたい事実に、今日も感謝していきたい。

 

2019.07.07 都内某所にて

『影響』とか、『切磋琢磨』とか。

少しずつ夏休みの間の予定が埋まり始め、とうとう夏が来たんだなと実感する。あとは梅雨が明けて気持ちの良い青空が顔を覗かせてくれれば完璧なのだが、どうやら調べた感じ、梅雨明けまではもうしばらくはかかるようだ。気温が高くないのは幸いだが、一方でカラッとした晴空を期待せずにもいられない。

蝉の声が、今は待ち遠しい。

 

最近、周囲で少しずつブログを日記感覚でつける友人が増えてきた。

自分の生活を省察的に振り返るもの、もっと簡潔にライフログ感覚で記録するもの。人によってブログの内容もいろいろで、読んでいて面白いし参考にもなる。

自惚れかもしれないけれど、友人たちがブログを始めたのはこのブログの影響も少なくはないのかもしれないと、そんなことも思う。記事の中身は本当に薬にも毒にも下らないものばかりだけれど、「私がブログを書いている」というその事実が何かに少しでも影響を与えているというなら、こんなに嬉しいことはない。最近は隔日投稿になってしまっているとは言え、執筆のモチベーションも高まるというものだ。

人からどんどん良い所を吸収できる人間というのは、確かに存在し、そして強かだ。

私の人生にも、何度かそういう類の人間と接点を持つ機会があった。そしてその度に、唸らされたものである。

人のやっている良い習慣を即座に自分の生活に取り入れたり、人から勧められた今まで読んだことのないタイプの本を即座に買ってきて読んだり。そういった行為は、簡単なようで実は意外と億劫だったりする。参考にしようとは思っても、要は今までの自分の生き方、やり方と違ったことを始める訳だから、そこには多少なりともエネルギーを要する。私は特に面倒臭がりなタチだから、余計にそういった行為に対するハードルは高く感じてしまう。

自分が“いいな“とか”参考になるな“と感じた行為に対する瞬発力が異様に高い人間は、絶対に強い。自分にプラスになること、益になることに対し、ある種貪欲に向かっていけるというのは立派な才能だと思う。私はそんな彼らを、いつか自分もそういうふうに変わっていければいいなと、そんな敬意と畏怖を持って遠くから眺めているのである。

友人たちのブログを眺める。彼らのブログは、デザインが一工夫されていたり、ブログの各機能を遺憾なく使いこなしていたり、既に私より二歩三歩先を行くような内容のものばかりだ。自分の不器用さに泣けてくる。

けれど、互いを参考に、高め合える関係というのは悪くない。

誰だって自分なりに頑張っている。目に見える頑張りだけが評価されるなんてことは決してないし、むしろ私は見えない努力こそ賞賛されるべきものだと考えている。

けれど、その中で私のこの備忘録は、人の目につくようなコンテンツで、それを評価してくれるような友人、似たような形で共に頑張ろうとする友人にも恵まれた。

 

ならばその事実に感謝して、今日も明日も、自分のために文字を綴っていこう。

 

2019.07.05 都内某所にて