『備忘録』だとか、『日記』だとか。

日々のあれこれを記録する自己満足日記帳

『違い』とか、『尊重』とか。

合宿から帰ってきた後少し慌ただしくしていたら、いつの間にやらまた投稿があいてしまった。なんだか毎度のように謝っていてもキリがないので、余程のことがない限り投稿期間があいたことの謝罪はこれで最後にしたいものだ。

まあ一定の投稿頻度を守れるのが一番いいんだけどね。それはそう。間違いない。

 

最近、『違い』というものにすごく敏感になっている自分がいる。

それは昨今のニュースであったり、身の回りのことであったり、或いは自分自身について考えているとき、度々突き当たる壁でもある。

京アニ放火事件での実名報道の件では、マスコミと民意の立場の『違い』が浮き彫りになった。私の身近でも、考え方の対立によってつい最近仲違いのようなことも起きている。

自分自身のことであれば、最近はもっぱら就活のことについての悩みが頭を占めているのだが、これはいかに自分自身の強み、他の人との『違い』を伸ばし、アピールできるかということにかかってくる。『違い』は武器にも火種にもなり得るということだ。

『違い』一つで諍いが起きたり、差別を受けたりするようなこともあれば、逆に『違い』を武器に評価されたり、新しい可能性に出会えることもある。立場の違い、考え方の違い、得意不得意の違いーーーこの『違い』との付き合い方によって、人はもっとずっと賢く生きていけるような気がする。

そもそも『違い』と一口に言っても、そのあり方は様々だ。一目で分かる外見上の違いもあれば、長く関わってみないと分からない内面の違いも確かにある。立場の違いというものもあるだろうし、文化や信仰の違いといったものもある。

しかし、どんな場面においても共通しているのが、『違い』というものには『こちら』と『あちら』の立場があるということだ。自分からしたら向こうが『違う』わけだし、逆に向こうからしたらこちらが『違う』わけであって。そこにはマイノリティ、マジョリティのような違いはあっても、どちらが間違っていてどちらが正しいと言った絶対的な基準は存在しない。人は彼方と此方の違いを相対的な位置関係でしか認識することはできないのだ。

だからこそ、人との『違い』を認識した時、自分の方が正しいなどという傲りは捨てなければならない。互いを尊重し合う気持ちがかけた時、その『違い』は関係を阻む溝として互いの間に横たわることになる。

 

思いやりを、大切に。

 

2019.09.07ちょっと過ぎ 都内某所にて