『備忘録』だとか、『日記』だとか。

日々のあれこれを記録する自己満足日記帳

『勉強』とか、『学び』とか。

一昨日は久しぶりに都心の方へ用事で出ていた。七月中は休日はほとんど自宅で作業をしていたから、かれこれひと月ぶりくらいの遠出だったかもしれない。中央線に一時間ほど揺られる感覚も、なんだか少し懐かしいものだ。

 

この夏を少しでも有意義に過ごすために、秋口の試験を目標にコツコツ勉強を始めようと考えている。

昨日の昼ごろ、注文していた参考書が届いたので早速少し目を通してみた。普段から意識して知識をつけるように努めていたつもりではあったけれど、実際に参考書に目を通して見るとやはりきちんとした勉強が必要なことがよくわかる。この夏はきっちり時間を作って勉強に精を出したい。

大学受験の折、随分いろいろな勉強のやり方を試したけれど、結局これといった正解は見つけられなかった。朝型集中タイプ、完徹夜型タイプ、暗記&テストループ勉強法、単元個別集中勉強法、広域分野網羅的勉強法など、どれも一長一短でなかなか自分に合うベストな勉強法は確立できなかった気がする(なお今あげた勉強法は全て高校の時試した勉強のやり方になんとなく名前をつけたもので、正式な名称はよく知らんしあるかも分からん)。

しかしそんないろいろなやり方を試してまで、私たちが勉強に固執するのは何故なのだろうか。もちろんいい大学に行くため、いい会社に入るためと打算的な理由もあるのは確かだ。明確な見返りがなければ、勉強のモチベーションも幾分か下がってしまうことだろう。

しかし、多分そういったリターンがまったく無いような世の中になっても、人は学ぶことをやめない。未知の分野の開拓もそうだし、先人の知恵を学ぶこともそう。私たち人間は学ぶことの魅力に魅入られてきた。知らないことを知った時、わからないことを証明した時、人は叡智という名の宝箱の中を覗き見る。そこには私たちの知的好奇心を大いにくすぐる様々な宝が眠っており、私たちはまだ見ぬものを探すため、そしてそれを手に入れ自分の血肉にするために、いつだって学問の扉を叩くのだ。

勉強と一口に言っても、その分野は本当に様々だ。学校で学ぶものもあれば、誰からも学べない自ら見つけるしかない学びというものもある。けれど誰にだって、何か一つでもその中に極めたい何かが見つかるものだと、そう思う。

「学校行くな!」と豪語するYouTuberがいるのだという。気持ちはわかる。私も学校にそんなにいい思い出はない(なくはないよ!)。無理してまで行くようなところでもないとは思う。

けれど、学校という場所は自らの学びたい気持ち、知的欲求と出会う場所としては本当に最適な場所だ。授業で習うこともそうだし、さまざまな人間と関わる中で得られる経験というのもそうだ。いつだって人との関わりの中には、学びがある。学校という場所には、あらゆる学びのきっかけが眠っているはずだ。

そして、そうやって探し当てた学びたい分野が学校の中になければ、その時点で学校を出て行くことも選択肢として大いに結構だと思う。自分だけのステージで、思う存分学び、戦えばいい。

私の学びの場所は、まだ学校の中にある。けれどもう一年と数ヶ月経てば、私の学びの在り処は学校から社会に移ろう。それまでにきちんと今学べるたくさんのことを吸収して、悔いの残らないように生きていきたいと、そう思う。

 

私の学びの道も、まだまだこれからだ。

 

2019.08.06 都内某所にて