『備忘録』だとか、『日記』だとか。

日々のあれこれを記録する自己満足日記帳

第20回:『友人』とか、『性格』とか。

今日で休みが終わりなの、嫌というより現実感がなさすぎて普通に何の感情も覚えない。嘘でしょ?

 

ゴールデンウィーク中、就活で東京に出てきた友人の面倒を見ていた。

そいつとは小学校低学年からの付き合いなので、もう十数年来の間柄になるのだが、なんだかんだ腐れ縁のようにこの歳まで関係が続いている。お互いアクの強い性格をしているので話が合わないこともしばしばだが、それでも会って話せばそれなりに楽しいので、まあそれでいいかなって気持ちにもなる。友人なんてきっとそんなものだろう。

しかし、さすがに数日同じ部屋で過ごすとなると、互いに不快になるようなこともいろいろと起きる。その友人——仮にそいつをKとするが――は身近な友人に対して割とボディタッチなどを多用するようなタイプなのだが、私はそういったべたべたした接触は苦手だ。それはきちんとKにも伝えているのだが、KもKで妙に意地の悪い性格をしているので、何度注意してもやってくるときはやってくる。やな奴だ。他にもトイレのスリッパの並べ方が違うし、自分の荷物を部屋のあちこちに散らかすし、平気で下着姿で部屋を闊歩するし、、、

まあこれは少し極端な例かもしれないが、それにしたって生活スタイルも行動指針も何もかもが違う人間が共に生活すれば、そりゃ互いの嫌なところが見えてくるなんてのは当然のことだ。それは私にもわかる。

けれど、ふとしたときに、こんな不快な想いをするくらいならこいつと友人である必要があるのだろうかと、そんな考えが頭をよぎることもある。

特に友人なんて何の拘束力もない関係性、一度拒絶すれば簡単に糸の切れるような程度の距離感なのに、無理して付き合う必要なんてないのは誰だってわかるだろう。どんなに固い友情を誓い合っていても、連絡先をブロックして、会っても口を利かないようにすれば、いつかは自然に消えゆく程度のものだ。友人関係なんて、自分でいくらでも取捨選択して整理できる。

世の中には、常に自身の友人関係を整理しているようなタイプの人もいる。自分に合わない人間は即座に見切りをつけ、居心地のいい友人とだけ密に関係性を築く。賢い生き方だと思う。ストレス源になりうるものをあらかじめ自分の世界から排除しておくというのは、リスク管理の在り方としても正しい。

けれど、うん、やっぱり私は、友人の在り方は多種多様でもいいのかなと、そうも考えてしまう。Kだって、面倒なところもあるけれど、私にないものをたくさん持っている面白い奴だ。それを少し不快になったからって切り捨てるのは、なんだかいろいろな可能性を閉ざすような行為にも思えてしまう。

人間、一人一人違って当然なのだ。それを認め合うことからしか、結局人と人との関係性は始まらないということなのだろう。

昨今のグローバルな世の中では、価値観の多様性を受け入れる視座が求められる。その第一歩は、もしかしたらこんな日常の友人たちとの関係の中に隠れているのかもしれない。なんて。

 

さて、明日からまたいつもの日常が戻ってくる。

ほどほどに、てきとうに、やれる範囲でまた頑張っていこうか。

 

2019.05.06ちょっとすぎ 都内某所にて