『備忘録』だとか、『日記』だとか。

日々のあれこれを記録する自己満足日記帳

『生』とか、『メディア』とか。

昨日、令和初の皇居への一般参賀に参加してきた。

計四時間ほど皇居外苑で列に並び、やっとの想いでの参賀となったが、非常に良い経験になったように思う。

 

今回のこともそうだが、大学進学で東京に出てきて、いろんなイベントに行けるようになった。それは素直に嬉しい。地元・熊本にいたらなかなか経験できなかったであろう、あれやこれやを東京に来てたくさん体験することが出来た。東京へ進学させてくれた親には感謝してもしきれない。

ところで最近のイベントやライブは、ライブビューイングや動画サイトでの生配信を行っているものも多い。場合によっては下手に現地に行くより良い角度で舞台を見れることも多く、私も地元にいたころなど大分お世話になった。テレビ中継などもそうだが、もはや"生で"、"現地で"という条件の価値は過去に比べ著しく低下した。現地にいなくてもリアルタイムでイベントや事件の情報が入ってくる。公式であれ非公式であれ、誰かが発信した情報や映像が即時に手元に入ってくるのだから、悲しいかな、現地に行かなくて満足する、ということも昔に比べて増えてしまったような気がする。

昨日の一般参賀もそうだ。生中継がどこかのチャンネルでやっていたかどうかは知らないけれど、陛下のお言葉を携帯で動画に収めようとする人は、現地にも数えるのも馬鹿らしくなるほどたくさんいた。ふと隣を見ればうちの両親までもが陛下の御姿を前に、スマホを掲げている。家に帰って調べてみれば、たくさんの動画がSNSなどに転がっている。私が四時間かけて得た貴重な数分は、誰かの手によって片手間に拡散され、現地に行くことを考えもしなかった多くの人に届いてしまっている。そう考えると、少しだけ虚しさを覚えないでもない。

思えば梅田の事件も、似たような構図だったのかもしれない。今まさに飛び降りんとする女性を前に、多くの人たちはその光景にスマホを掲げることを選んだ。現地の状況はリアルタイムで全国に拡散され、その身がついに空へ投げ出される瞬間までもが携帯のレンズに収められ、SNSにアップされた。不謹慎だ、などという議論はもうされ尽くした頃だろう。私も説教じみたことを含め、めったなことをいうつもりはない。私に出来ることなんて、その名も知らぬ女性の冥福をただ身勝手に祈ることだけだ

ただ、決して動じぬ事実として、現代はこういう時代なのだと、それを改めて自覚する必要がある。陛下のお言葉も、誰かの飛び降りる瞬間も、誰かがカメラに収めていて、誰かがSNSでどこかに発信している。それを意識して、これからの令和の時代を生きていかねばならない。

 

良い時代に生まれたとばかりも言ってもいられないようだ。便利さにともなう責任の在り方を、少しずつ考えていきたい。

 

2019.05.05ちょっと過ぎ 都内某所にて