『備忘録』だとか、『日記』だとか。

日々のあれこれを記録する自己満足日記帳

『映え』とか、『体面』とか。

友人と渋谷のパンケーキ屋に行ってきた。店内は僕ら以外ほぼ全員女性でなんとも肩身が狭かった。

 

そんなわけで甘党のおっさんが二人、甘くて美味しくてふわっふわのパンケーキを食べてきたわけなのだが、お互いインスタなどをやっているわけでもないので、華やかな外観のパンケーキを目に焼き付けるだけ焼き付けたあと、二人で黙々とその甘やかな小麦粉の塊を口に運んでいた。周囲から見たら少し可笑しい光景であったかもしれない。

その際友人と話題になったのが、いわゆる『インスタ映え』の話題だ。

インスタ映え』とは言わずもがな、写真共有型ソーシャルメディアであるところのInstagramにアップする写真としてふさわしいような写真映えする華やかな様子を表す言葉であるが、インスタに限らず、昨今SNSに投稿するための写真や動画の是非について方々で論じられているのをよく目にする。もちろんSNSに投稿する写真すべてが悪いという話では当然ないのだが、一方でSNSに投稿する写真のために倫理に反する行いをしたり、あまり行儀のよくない行為に及ぶ人というのも存在するわけで、そういったものを例に、世に言う『インスタ映え』批判というものが行われている現状がある。

極端に反社会的であったり不作法であったりしなくとも、食事の前に料理を写真に収めてSNSにあげたりといった行為自体を行儀が悪いと断ずる人もいる。

かくいう私も、そういった行為を決して気持ちがいいものとは感じない方だ。記録のために残すというのならばまだしも、写真をとってそのまま食事を前に携帯を弄ったりするような行為などはどうしても行儀が悪いような気がしてしまい、自分が行うことはあまりない。

一方で、そんな風にこういった行為を断ずるのは、自分だったら体面を気にしてできないという感情に基づいているような気もする。

自分も友人も、周囲の目を気にして自分は写真を残せないだけで、決して写真を撮ること自体を否定したいわけではない。私たちは体面を気にして写真を撮れないが、逆に『インスタ映え』を気にする層というのは、自らの体面のために写真をとっている節があるのだろうということも理解している。彼ら彼女らは、周囲に自らの活動を周知することで話のタネにしたり新しい話題づくりにしているという話も聞く。『インスタ映え』させるもさせないも、要は自らの体裁を保つということが、一つ要素として大きくかかわっているのだ。

そう考えると、安易に『インスタ映え』を批判するのもおこがましい話だ。自分だって結局体面を気にしているのだから、本質的には『インスタ映え』を気にする層とやっていることは変わらない。

少し、彼ら彼女らを見る目が変わったような気がする。少し、ほんの少しだが。

 

ただやっぱり、そうは言っても『映え』させるのも程ほどに。

 

2019.05.02 都内某所にて