『備忘録』だとか、『日記』だとか。

日々のあれこれを記録する自己満足日記帳

『貸し』とか、『借り』とか。

また一日空けてしまった。

二週間に一度程度なら週休二日マジックで『毎日更新!』の謳い文句も可能かもしれないが、週一はちょっと言い訳できない。
忙しくて時間がない日があるなんてのは当然で、それでも日課を欠かさずこなす人間と言うのは世の中に必ず存在する。そういった人たちに憧れて始めた習慣なのだ。もっと確実に、堅実に、日々更新を心がけていきたい。

そんなわけで今日の話題。『give』と『take』のおはなし。
私は昔大変けちんぼな人間だったので、目に見えない何かや形に残らない何かにお金を投資する、といった行為が理解できなかった。食事も外食や買い食いといったことはほとんどしなかったし、旅行や遊びにお金を費やすことにも抵抗があった。
目に見える"金銭"というものの対価として堪えうるのは、同じ目に見える物的な財であるべきと言うのが当時の私の思想であった。
中でも群を抜いて理解できなかったのが、他人への贈り物にお金をかける、という行為についてだった。
別に他者への感謝の気持ちが理解できない、血の通わない子供であったということではない。自分で言うことでもないかもしれないが、小さい頃から人並みに親や他者への感謝の気持ちは持ち合わせて生きてきたつもりだし、感謝の気持ちの一つの形として贈り物が有用であるということも理解していたと思う。
ただ、そこには心がこもっているということが大事で、決してお金をかける必要はないというのが持論だった。
もちろん今でも贈り物は金額が高ければ高いだけいいと考えているわけではないが、少なくとも当時のその考えの根底には、他人への贈り物なんて究極的に手元に何も残らない消費行為にお金をかけるのなんて勿体ない、という思考が少なからずあったと思う。もちろん小中の頃なんてそもそもが自由に使える金額が少ないのだから、まあそんな思考に至っても仕方がないのかなと多少過去の擁護してみたり。
そして時は流れて現在。
大学生にもなり、自由に使えるお金も大分増えた今の自分は、少し違う考え方が出来るようになった。
「情けは人の為ならず」という言葉がある。人に施した情けは、いずれ巡りめぐって自分に良い報いとして返ってくる、という考え方だ。「善因善果」という因果応報的な仏教の思想にも通じる考え方だが、この考えに照らして考えると、人のために使うお金はいずれ巡りめぐって自分の元に返ってくる、ということになる。お祝い事の御祝儀や保険金といったものを例に考えると分かりやすいかもしれない。人の為に使ってきたお金は、いずれ自分が必要になったときに返ってくる。もちろん絶対というわけではないけれど、少なくとも互いが互いに感謝の心を忘れない限りは、その営みは目に見えないつよい繋がりをもって履行されるものだと私は思う。

ここまでお金の話をしてきたけれど、別にこれは金銭に限った話でもない。少し難しげな言葉を並べ立ててしまったが、要は貸し借りの話だ。最初にも言った『give』と『take』の話だ。
人に施した"貸し"は、"借り"としていつか自分に返ってくる。その目には見えない強かな約束事が人と人を繋ぎ、この社会を形作っている。この約束事が破られれば、人は信頼を失い、関係は破綻を迎える。簡単なことだ。一方的に利用されるだけの関係を、良しとする人間はいないだろう。
少し話が逸れてしまったが、要は自ら率先して『give』出来る人間でありたいものだと、そういう話だ。
偽善かもしれない。下心だってなくはない。
けれど、偽善でいいじゃないか。やらない善よりやる偽善だ。

今日も今日とて良き隣人、良き偽善者として生きていく。

2019.04.26 都内某所にて