『備忘録』だとか、『日記』だとか。

日々のあれこれを記録する自己満足日記帳

『帰省』とか、『回顧』とか。

実家の安心感、夏休みの倦怠感、帰省時特有の慌ただしさ、嬉しい知らせ、頭の痛い知らせ、いろいろな条件が重なって、さらに頭の中も何かゴチャゴチャしていて、結局また随分と投稿が空いてしまった。夏休みのようなものだと思って勘弁してほしい、なんて弁明しても、そもそも私は誰に対して弁明しているのかもよくわからなくなるのでやめておこう。

今回は地元で感じたあれこれを、文字におこせそうな範囲でつらつらと綴っていく。

 

改めて、またしばらく投稿期間が空いてしまった。理由はいろいろだが、忙しかったというのはいつも言っているが言い訳としては不十分だろう。忙しくても自分の時間を作っている人というのはいくらでもいる。それに、これは自分自身を高めるための時間だ。それをきちんと確保するというのも自己管理の範疇だと思う。反省。

最近はブログを書こうとしてもあまり捗らないということが増えていたのだが、それにも一応の答えを得た。すなわち、インプットが足りていないのだ。どんな文章を書くにも、やはり自分の中に蓄えた言葉を弄するだけでは限界がある。常に新しい言葉や表現を外から吸収しなければ、瑞々しい文章というものは書けない。その点最近の私は、忙しさに胡座をかいてすっかりインプットの活動を疎かにしていた。これでは書けるものも書けないというのは道理である。

ここ数日は意識的に様々な文章に触れるようにしている。きちんとしたインプット、アウトプットのローテーションを今後も意識していきたい。

夏休みの時間を使って就活の準備を進めるなかでも、このブログの存在意義について少し考える機会ができた。夏休みもやがて半分が終わり、私に残された時間というのはもっとずっと少なくなっていくことだろう。そのなかで使える有限で貴重な時間をあてるに値するような成長を、私はこのブログで得られているのだろうか。正直あまり、実感はない。けれど、やはりコツコツ続けていくべきなのかもしれないとも思う。

先日会食の場で親戚一同と歓談した折、従姉と将来のことについて少し話す機会があった。従姉は既に働いているし結婚もしているしで、人生の先輩といっても過言ではない人だ。

従姉に、最近将来のために文章の勉強をしていることを伝えると、それはいい心がけだと太鼓判を押してもらった。その理由を尋ねたところ、どうやら社会に出るときちんとした文章を書けない人は理系よりも文系の人に多いらしいのだ。というのも、理系の学科を出ている人たちは大学の在学中に論文を執筆する機会が多く、その過程で簡潔で分かりやすい文章を書くよう徹底的に指導されるのだが、逆に文系の人たちはあまり在学中に学術的な論文に触れる機会が少なく、冗長でとりとめのない文章を書く人が多くなりがちらしい。だからこそきちんとした日本語の文章を学ぶことは、決して馬鹿にできないのだと。

それを聞いて、少しは報われるような気持ちになった、無駄ではないと言ってもらえることの、なんと救われることだろう。今後はもっと自信を持ってコツコツとこの活動を続けていかねばと気分を新たにした。

地元に帰ってきて、いろいろな人や物に触れ、またいろいろなことを考えるようになった。書きたいことも少しづつ増えてきたように思う。今日からまた、投稿の頻度を少しずつ高めていこうと思う。

しばらくは不定期投稿になるかもしれないけれど、よければまたお付き合いいただければ幸いである。

 

さあ、また文字を綴っていこう。

 

2019.08.20 地元九州にて

『食』とか、『関心』とか。

生活費の計算している時が人生で一番頭がいいのに、お金を使う時が人生で一番馬鹿だから結局採算合わなくなって死にそうになる。そんな人生。

 

友人が土産に買ってきてくれたらっきょうがあったので、お米を炊いてお酒も用意して、プチらっきょうパーティを決行した。そしたらまあお酒は減る減る、ご飯は無限におかわり出来るしで、知らぬ間にすっかり出来上がったしまっていた。今は上機嫌かつちょっとした気分の悪さを抱えながら、このブログを書いている。お酒は好きだがあまり得意ではないので。

“食”はやはり生きる楽しみの一つだと思う。私の場合、普段はそんなに食事にお金をかける方ではないけれど、それでもたまには豪勢な食事を取りたくなることもあれば、美味しい食事で明日への活力をつけるような場面も多々ある。食は生活の基盤の一部であり、だからこそ質の高い食事は質の高い生活につながるのだ。

好きな食べ物を繰り返し食すというのも悪くないけれど、新しい美味と出会う体験もそれはそれで素晴らしいものだ。今まではあまり良いイメージのなかった食べ物でも、質のいいものを食することでそのイメージが覆るようなこともある。新しい食との出会いは、つまるところ新しい喜びとの邂逅でもある。そんな体験が素晴らしいものでないわけがない。

新しい美味との邂逅の機会は、やはり旅行や普段行かない場所ような場所へ足を伸ばした折に訪れることが多い。出先でふと入った小料理屋のメニューに感銘を受けたり、旅先の郷土料理に舌鼓を打つといった経験は、ただ美味しいものを食べられたという以上の喜びを感じられるし、さらなる旅へのモチベーションにも繋がるものだ。

もちろん、他の人からのお土産を通して新しい美味と出会うこともままある。普段かららっきょうは割と好きだったけれど、鳥取のらっきょうが美味しいことはあまり知らなかった。今回の友人からのお土産で、鳥取へも足を伸ばしてみたいという気持ちが強くなった気がする。食への興味は場所への興味へ少しづつ形を変え、私たちの生活をより一層充実させてくれているような気がしてくるのだ。

 

食への関心を、いつも大事にしていきたい。

 

2019.08.14 都内某所にて

『好き』とか、『多様性』とか。

汗をかきすぎて卸したての服が臭くなったの悲しすぎて泣いてしまう。

 

コミックマーケット、四日間本当にお疲れ様でした。

今年は例年といろいろな点で違っていて、いくつか問題などもあったようではあったけれど、それでもなんとか平穏無事にイベントが終わった事実にまずは胸をなでおろす。私自身は今年は予算や日程の都合であまり会場を回れずサークルの店番をしている時間がほとんどだったけれど、それでも近くのサークルの方々と交流する中で普段聞けないような話を聞けたり、有名なイラストレーターさんや有名人を生で拝むことができたりと非常に充実した時間だったように感じている。一般参加でいろんなサークルを回った友人の話を聞けたのも楽しくて良かった。

しかしコミケのようなイベントに参加するたびに、世の中本当にいろいろな人間がいるものだと、そんな当たり前の事実を改めて痛感させられる。いろいろな趣味嗜好、発想、思想の人間がいると普段から頭で理解はしていても、実際にイベントで生でそういった人たちを観測するとやはり少し動揺してしまう。

コミケは何十万という数の人たちが、自分の『好き』を持ち寄り、共有する場である。その中には、たくさんの人々に受け入れられるような、普遍的でお行儀の良い『好き』もあれば、一部の人たちにだけ深く刺さるような、至極ニッチな『好き』も沢山ある。よくそんな発想に至ったなという『好き』に驚かされることもしばしばだ。

そして、そんな多様な『好き』の中には、時に別の誰かにとっての『嫌い』が含まれていることもままある。いや、むしろそんなことばっかりだ。当たり前のことである。世界中全ての人間に受け入れられるものなんて、どんなに考えても生まれたばかりの子猫の可愛さくらいしか思いつきそうも無い。私の『好き』が誰かに否定されることなんてしょっちゅうだし、逆に誰かの『好き』にちょっとした嫌悪感を覚えることだって日常茶飯事だ。だって、“私”と“貴方”は別々の思考を持って生まれた生き物なのだから。仕方のないことなのである。

コミケはそういう意味で、私たち人間が人という種族の多様性を学ぶ上で絶好の場所であるように私は感じている。『好き』と『嫌い』、人間の欲望と感情がぐるぐると渦を巻いていて、それでも終わってしまえば最高の体験として記憶に昇華されていくこのイベントは、きっと参加者一人一人の人生をより一層濃密な、濃いものに変えていくのではなかろうかと、そんな気がしてやまないのだ。

コミケが底知れぬ魅力を有している理由も、きっとそう言った部分にあるのでは無いかと、そんなことをコミケ帰りの夏の夜に、ふと考えるのである。

 

さて、次の冬のコミケに向けて、また少しずつ自分の『好き』を磨いていきたい。

 

2019.08.12 都内某所にて

『凡庸』とか、『特別』とか。

最近二年越しくらいにポケモンGoを再開したのだが、勝手が分からなさすぎるのと携帯のスペックが残念なのとで、満足にポッチャマも捕まえられないのがもどかしい。けどポケストップ巡りは楽しい。アイテムが溢れる溢れる。

 

コミケにあわせて高校時代の友人が中国地方から東京に遊びに来た。東京は久しぶりらしいので、案内する側にも力が入るというものだ。

今日はその友人たっての希望で一緒に門前仲町を散策したのだが、どうやら彼の普段親しんでいる界隈では門前仲はいわゆる一つの“聖地“らしく、しばしば私には分からないような場所で感動していて非常に興味深かった。

世の中には無数のモノがあり、場所があり、人がいる。それぞれのものにはみな意味があり、価値がある、というのは確かに揺るがぬ事実である。しかしその意味や価値というのも、それを認識する人間によって千変万化に変わっていくものであるというのも、また確かな事実であるのだ。

聖地の概念なんてまずそうだ。一見何の変哲も無い、事実何か特筆すべき特異さを持ち合わせないような場所であっても、一度そこがドラマや映画に登場したり、あるいは誰か有名人のお気に入りの場所として紹介されたりすれば、ひとたびそこはそのコンテンツを親しむ人間にとって『特別』な場所となる。その場の機能的な価値は何一つ変わっていないにも関わらず、だ。

今日の体験も、私にとっては何でも無いような凡庸な場所で友人が感動していたのは、友人にとってその場が『特別』な価値を持っていたからであって、それは共通の認識を持つ相手でなければ通用しない『特別』だった。多分彼と似たような界隈に親しんでいる人間であれば同じく『特別』視されるのだろうし、そうでない人からしたら変わらず凡庸な場所であることだろう。同じ世界でも、見ている人によってその世界の見え方が確実に違っている。私はそれが、たまらなく面白いことだと感じるのだ。

 

私の感じる『特別』を大切に、明日も胸を張って生きたいものである。

 

2018.08.10 都内某所にて

第70回:『コミケ』とか、『表現』とか。

今日は久々に素晴らしい入道雲が見れて少し興奮してしまった。夏の雲は迫力があって好きだ。

 

さて、明日からついにコミックマーケットである。私の所属している漫画研究会も部誌を頒布する予定なので、今から少し人混みと暑さへの対策を考えておかねばなるまい。

二年前、初めて参加したコミックマーケットは本当にすごい規模で、会場についただけでその人の多さと熱気に圧倒されたことを覚えている。翌日には地元に帰省しなければならないタイトなスケジュールの中で、それでも目一杯会場中を見て回ったことは今でも楽しい夏の思い出だ。

コミケは趣味の発表会、好きの品評会だという話をどこかで聞いたような気がする。様々な人間が自分の『好き』を持ち寄って大勢の人たちと共有する、そんな場なのだと。

7月18日に発生したあの悲しい事件は人々の表現の自由が奪われかねないような、痛ましく深刻な事件であった。しかし、それで私たちの『好き』を表現する場が奪われていいはずがない。明日からのコミックマーケットが、各々が持ち寄った最高の『好き』を共有できるような、素晴らしいイベントとして終わってくれることを願ってやまない。

 

今日は投稿少し遅くなったので、このくらいで。

 

2019.08.08そこそこ過ぎ 都内某所にて

『勉強』とか、『学び』とか。

一昨日は久しぶりに都心の方へ用事で出ていた。七月中は休日はほとんど自宅で作業をしていたから、かれこれひと月ぶりくらいの遠出だったかもしれない。中央線に一時間ほど揺られる感覚も、なんだか少し懐かしいものだ。

 

この夏を少しでも有意義に過ごすために、秋口の試験を目標にコツコツ勉強を始めようと考えている。

昨日の昼ごろ、注文していた参考書が届いたので早速少し目を通してみた。普段から意識して知識をつけるように努めていたつもりではあったけれど、実際に参考書に目を通して見るとやはりきちんとした勉強が必要なことがよくわかる。この夏はきっちり時間を作って勉強に精を出したい。

大学受験の折、随分いろいろな勉強のやり方を試したけれど、結局これといった正解は見つけられなかった。朝型集中タイプ、完徹夜型タイプ、暗記&テストループ勉強法、単元個別集中勉強法、広域分野網羅的勉強法など、どれも一長一短でなかなか自分に合うベストな勉強法は確立できなかった気がする(なお今あげた勉強法は全て高校の時試した勉強のやり方になんとなく名前をつけたもので、正式な名称はよく知らんしあるかも分からん)。

しかしそんないろいろなやり方を試してまで、私たちが勉強に固執するのは何故なのだろうか。もちろんいい大学に行くため、いい会社に入るためと打算的な理由もあるのは確かだ。明確な見返りがなければ、勉強のモチベーションも幾分か下がってしまうことだろう。

しかし、多分そういったリターンがまったく無いような世の中になっても、人は学ぶことをやめない。未知の分野の開拓もそうだし、先人の知恵を学ぶこともそう。私たち人間は学ぶことの魅力に魅入られてきた。知らないことを知った時、わからないことを証明した時、人は叡智という名の宝箱の中を覗き見る。そこには私たちの知的好奇心を大いにくすぐる様々な宝が眠っており、私たちはまだ見ぬものを探すため、そしてそれを手に入れ自分の血肉にするために、いつだって学問の扉を叩くのだ。

勉強と一口に言っても、その分野は本当に様々だ。学校で学ぶものもあれば、誰からも学べない自ら見つけるしかない学びというものもある。けれど誰にだって、何か一つでもその中に極めたい何かが見つかるものだと、そう思う。

「学校行くな!」と豪語するYouTuberがいるのだという。気持ちはわかる。私も学校にそんなにいい思い出はない(なくはないよ!)。無理してまで行くようなところでもないとは思う。

けれど、学校という場所は自らの学びたい気持ち、知的欲求と出会う場所としては本当に最適な場所だ。授業で習うこともそうだし、さまざまな人間と関わる中で得られる経験というのもそうだ。いつだって人との関わりの中には、学びがある。学校という場所には、あらゆる学びのきっかけが眠っているはずだ。

そして、そうやって探し当てた学びたい分野が学校の中になければ、その時点で学校を出て行くことも選択肢として大いに結構だと思う。自分だけのステージで、思う存分学び、戦えばいい。

私の学びの場所は、まだ学校の中にある。けれどもう一年と数ヶ月経てば、私の学びの在り処は学校から社会に移ろう。それまでにきちんと今学べるたくさんのことを吸収して、悔いの残らないように生きていきたいと、そう思う。

 

私の学びの道も、まだまだこれからだ。

 

2019.08.06 都内某所にて

『成長』とか、『広い世界』とか。

昼に散髪のために理髪店に向かっていたら道中お祭りの準備をしていたので、用事を済ませた帰り道に少し屋台によって買い食いをするなどした。今日からお祭りとは全然知らなかったので一人出店をひやかすだけにはなったが、それでもやはり祭りは楽しいものだ。この週末は祭囃子を聞いて過ごすことになりそうだ。

 

そんなこんなで夏休みになった。昨日今日は休みの解放感で終日遊んでばかりいたが、そろそろ生産的な活動も始めていかねばなるまい。

休みの期間は、バイトやインターンなど、他にもいくつかやることがあるので基本的には都内で過ごす予定だが、八月の後半は一週間ほど地元に帰省する予定になっている。一人暮らしにはもうだいぶ慣れたし満足もしてはいるが、それでもやはり長いこと帰省していないと寂しさの一つも感じてしまうものだ。地元では中高の頃の友人とゆっくり酒でも飲めたらいいなと考えている。

こう言ってしまってはなんだが、私の地元である熊本は今住んでいる東京と比べると、やはりどうしても見劣りしてしまう。もちろんいいところも沢山あるし、私自身故郷である熊本への愛着も強い。しかし現実問題として、熊本と東京とでは東京の方が見て回れるところも多ければ、利便性も高いのだ。こんな生活があることを知ってしまった以上、元の地元での生活に戻ることはそう簡単に出来そうもない。

小学生の頃、校則で許可なく学区外に一人で出てはいけないという決まりがあった。優等生だった私はそれはもうきっちりと規則を守っていたので、校区外れにある自宅から徒歩10分ほどで行けるTSUTAYAへも、校区外ということで親と同伴でなければ行かないようにしていた。もちろん家族でどこそこへ車で出かけることは多々あったが、それでもあの頃の6年間、私の生活は小学校の校区内でほとんど完結していたと言っても過言ではない。

中学に上がり、校則の縛りもなくなったので自転車でいろんな場所へ行く機会が増えた。陸上部の大会で遠征することや、友達と遠くのショッピングモールへ出かけることも増え、私の活動領域は校区内から市内全体へと広がっていった。ふとしたときに、よく私はこんな狭い校区の中で6年間も満足に生活していたものだと、そんな呆れにも似た感情を覚えたことを覚えている。

高校の頃は、中学に比べると特別行動範囲が広くなったということはなかったが、それでも様々な機会で今まで行ったことの無いような場所にも赴くようになった。

そして現在、大学進学に伴い上京してきた私は、東京で多くのことを見聞きし、学び、経験している。一口に東京とは言っても、広い交通網のおかげもあって、千葉や神奈川、埼玉などその行動範囲は多岐に渡る。東にイベントの会場あれば、行って物販を買い漁り、西に友人との約束あれば、行ってつまらないから帰ると言うといった具合だ。いやそんなアクティブな方じゃないし簡単に帰りもしないけどね?

東京はやはり便利で、その生活を知ってしまった以上簡単に熊本に戻れるかと問われれば、なかなか難しいと答えざるを得ないだろう。10年前、たしかにあの狭い校区内で満足している自分はいたかもしれない。けれど、広い世界を知った今、もうあの頃のように戻ることはできないのだ。それは成長と呼ぶには、少し悲しい変化であるような気もする。

蛙は大海を知った。もう井戸には戻れない。ならばせめて、あの頃の自分に、井戸の中の自分に誇れるように立派な蛙になりたいと、そう願うばかりである。

 

きっともっともっと広い海が、未来で私たちを待っているのだから。

 

2019.08.02 都内某所にて