『備忘録』だとか、『日記』だとか。

日々のあれこれを記録する自己満足日記帳

『七月』とか、『振り返り』とか。

昼間の蒸し蒸しした気候に不快感を覚える反面、「そうそうこれが夏、夏なんだよねぇ」ってしみじみ呟く夏なんだよねおじさんが心の中に顔を覗かせる今日この頃。

多分夏好きは全員もれなくドMなんだと思う。

 

今日はサークルの友人や後輩と部室でライブブルーレイの鑑賞会を行い、その後納会ということで居酒屋でわいわい酒を飲んできた。楽しかった(小並)

期末ということでしばらく会えない友人などもいることを考えると少し寂しい気もするが、しかし大学生の夏休みなど漫然と過ごせば本当にあっという間だ。せめて各々が有意義な夏を過ごせることを願うばかりである。

そんなわけで、七月も今日で終わりだ。日付が変われば楽しい楽しい(諸説ある)八月が始まる。

なんだか今月は日が経つのが本当にあっという間だった。毎月こんなことを言っている気がするが、それにしたって今月は本当に早かった。テスト勉強やレポートの準備など、こなしてもこなしても湧いてくるタスクがあるとやっぱり気も急いてしまうのかもしれない。

月末なので、今回も少しこの七月を振り返ってみたいと思う。

七月頭、多忙な月になることが目に見えていたので、このブログの更新を隔日投稿に変更した。これは結構自分のペースにもあっていたようで、今までよりもブログに対するモチベーションを高く維持することができていた気がする。いや相変わらず投稿が空いた日とかもあったけれど。来月以降ももう少しこのスタイルでやってみようと思う。

中旬では、いろんな人と久し振りに話して自分のモチベーションを高めたりもした。やっぱり人とゆっくり語らうのはいいものだ。

下旬になってくると、悲しい事件や暗いニュースばかりで気が滅入ってしまったが、私たちはそれでも前を向かねばならないのだと、気持ちを切り替えるきっかけになった。今はただ、自分にできる精一杯で一つ一つのことをこなしていくだけだ。

来月は、きっとたくさん楽しいことがある。しかし同時に、自己の成長につながる非常に大事な期間であるような予感もしている。

 

有意義な夏を、過ごしたいものだ。

 

2019.07.31 都内某所にて

『世界観』とか、『魅力』とか。

ついこの間大量のアイスを買い足したばかりだと思っていたのに、気がつけば冷凍庫の中が空になっていた。仕方がないのでセブンに買いに出たのだが、今度は最近お気に入りだった練乳のアイスがなくなっているではないか。

世の中ままならないものである。うん、ていうかアイス食べ過ぎな。

 

月末は幾分か金の回りが良くなるので、新しいゲームソフトを購入することが多い。

今月も新しくあれやこれやと新しいタイトルに手を出してみているのだが、どのゲームも本当によく作り込まれていて、毎度毎度新鮮な体験ができる。

面白いゲームの定義は人それぞれ異なるものだと思うけれど、少なくとも世界観が素敵であるということは、ゲームを楽しむ上で重要な要素の一つであることは間違いないだろう。最近買ったゲームも、ファイナルフェスこそ終わったがいまだ人気の某イカゲーだったり、地下世界を探検するダークファンタジーだったり、仲間と友情を深めながら目的を達成していくほのぼのファンタジーであったりと、その世界観は作品によって本当にマチマチだ。

ゲームに限らず、映画であったり本であったり、魅力的な世界観というのはそれだけで人々を惹きつけるものだ。そして昔から好きであれこれ物語を考えてきた身だからこそ、それを作り上げることがどれだけすごいことか、ある程度想像できてしまう。

新しい世界観を作り上げるというのは、つまり新しい世界を作るということとあまり大差がない。それは神になって、あらゆる部分に齟齬のない、完璧かつ魅力的な世界を創造するということだ。世界の細部細部、物語の隅々まで考えられて作り込まれた世界観というものは、何より説得力がある。そしてその説得力が物語に深みを与え、人々が面白いと思う魅力を醸成するのだ。

世界を作るとは、つまり歴史を考え、政治を考え、経済を考え、人間を考え、その世界に関わるあらゆる事象を一から考えるという途方も無い作業である。そのどれだけ大変で、尊い作業であることだろうか。

素敵な世界観、凝った世界観の作品というものは、それだけ時間と労力のかかった創作物であるということを忘れてはならない。だからこそ面白いゲームというものには、それだけ敬意を持って接せねばならない気がしてくるのだ。

 

今日も今日とて、素敵な世界と出会うために、私はゲーム機を起動するのだ。

 

2019.07.29そこそこ過ぎ 都内某所にて

『夏』とか、『予定』とか。

日中は、強い日差しに生ぬるい風。夜になると、遠くから花火の音が聞こえてくる。

とうとう夏が来たのだと、そんな実感がある。

 

大学の前期も、いよいよ終わりを迎えようとしている。夏だ。夏休みだ。

私は最近顔を合わせた友人一人一人に、よく夏休みの予定を尋ねている。興味本位で、というのも勿論あるが、それ以上に私の夏の過ごし方の参考にしたくて、という気持ちも大きい。誰かのやる気、頑張りというものは、往々にして自分自身のモチベーションにもつながる。

返答は人によって本当に様々だったが、皆それぞれ有意義にこの夏期休暇を過ごす算段を立てているようだった。休暇の大半をインターンに捧げるつもりの人、バイトに明け暮れる予定の人、思う存分遊びまくるつもりの人、帰省して英気を養う予定の人、短期留学に出かける人。夏休みの二ヶ月弱という期間は、何もせず過ごすにはあまりに長い。何より、これからの人生どれだけ望んでもなかなか手に入らないであろう、無責任なくらい自由な時間がそこにはあるのだ。考えて、考え尽くして、笑えるくらい有意義に過ごさねば、年間休暇120日以下で頑張っている社会人の方々への示しがつかない。

私はこの夏休みを、勉強のために使いたいと思っている。それは、インターンを通しての社会勉強であったりというのももちろんだが、他にも資格試験の勉強であったり、趣味である文章表現の向上のための勉強であったりと、やりたいことは様々だ。他にも少し考えていることがあるのだが、あまり目標を挙げ過ぎて結局うまくいきませんでした、では情けないので、こちらはもう少し形になってきてから報告できればと思う。

 

「明日死ぬかのように生きよ。永遠に生きるかのように学べ」とはガンジーが言ったとされる言葉である。

 

二ヶ月という時間は確かに長い。しかし、漫然と過ごせば儚く流れ去ってしまう程度のものであることも、また確かだ。だからこそ、一日一日を精一杯考えて生き、無限に生きるかのようにあらゆる知識・経験を吸収する時間にしたいと考えるのだ。

 

あなたはこの夏、何をして過ごす予定ですか?

 

2019.07.27ちょっと過ぎ 都内某所にて

『不安』とか、『それでも』とか。

試験期間が始まって、慌ただしい時間の中に小さな充足感がある。人間やっぱり、少し忙しいくらいの方が心身ともに健全だ。一人部屋で鬱々と考え事をしている時間ほど、非生産的なものはない。

 

また数日、投稿があいてしまった。

最近気持ちの沈むような事件ばかりで、ここ数日は少し気が滅入ってしまっていたようだ。放火、傷害事件、不祥事、政治不信、マスコミ不信。何が信じられて、何が間違っているのか。ニュースやSNSを見るたびに、気持ちがざわつく。

そういったいろいろな感情を素直に文字におこそうと試みもしたが、なかなか思うように形に出来ず、それでまたストレスが溜まるといった悪循環にここ数日は悩まされていたように思う。

世界の歪んだあり方に絶望して、先の見えない恐怖に押しつぶされ、一人膝を抱えて震える日々。なんだか勝手に世界の全てに否定されたような気すらした。

昨日なんて特に苦しかった。中学生の頃、死後のことを思って震えて夜も眠れなかったあの頃のような、漠然とした不安に押しつぶされて息もできなくなるような感覚。腹のなかの臓物を、悪魔にキュッと握られるような感じ。悪魔は人間の顔をしていて、虚ろな目でただこちらを見るのだ。

そんな時私の頭をよぎったのは、ある言葉。数年前に見ていたテレビアニメで、登場人物が唱えていた魔法の言葉。

「絶望と、仲良く。」

どんなに暗い出来事があっても、どんなに悲しい事実があっても、ただ底抜けに明るく、呆れるくらい前向きに生きていけるのが、人間って生き物だ。勝手に絶望なんて名前をつけたそれは、けれど他の人から見ればほんの些細なことかもしれない。暗い事件があって、それでも自分は生きていけるからと、割り切って顔を上げる人もいるかもしれない。私が勝手に弱気になっている横で、それでも確かに笑って前を向いている人たちがたくさんいる。私ばかり被害者ヅラで震えているわけにはいかない。

この世は確かに悲しいこと、クソッタレなことでいっぱいだ。それはもう、割り切るしかないくらいどうしようもない事実で。

けれど、人間は絶望と仲良く出来る生き物だ。少なくとも、辛い中でも前を向ける機能を持っている生物だ。笑えるくらい悲しいことがあって、呆れるくらい腹の立つことがあって、それでもと言い続けられる生命だ。少なくとも、私はそういうふうに教えられて生きてきた。

だから、信じて前を向こう。自分に何が出来るか考えよう。思考を止めてはいけない。歩みを止めてはダメだ。その停滞は、何も生み出しやしないのだから。

 

辛い時こそ笑顔でどうぞ。

 

2019.07.24 都内某所にて

『考え事』とか、『思い込み』とか。

少し、考え事で頭の中がゴチャゴチャしている。

まだ全然思考が整理できていなくて、今日の記事もあまり長くは書けそうにない。申し訳ない。

 

人間、よほど達観している人間でもなければ悩みや考え事の一つくらいあるものだろう。

私も大した人間ではないけれど、人並みに悩んだり考えたりすることくらいある。その上最近は暗い事件も多く、つい湿っぽい思考にとらわれたりもしてしまう。

悩むこと自体は決して悪いことではないと思うけれど、それで気持ちが沈んでいては仕方がない。暗い気持ちの時は、思考までもが重苦しくなることもしばしばだ。へんな思い込み、妄想で不必要に気持ちばかりが沈んでいく。これではいけない。考え事をするなら、せめて建設的であるべきだ。

 

少し無理にでも前向きに、気軽に、世界と向き合っていきたいものだ。

 

2019.07.20少し過ぎ 都内某所にて

『感情』とか、『日常』とか。

いろいろな想いがあると思う。意見があると思う。感情があると思う。

けれど、今はただ、黙することを選ぼう。

私自身、心を落ち着ける時間も必要だし、この話題一つで気持ちが穏やかでなくなってしまう人もいることだろうから。

今はただ、亡くなられた方々のご冥福と、安否の分かっていない方々の無事を心の底からお祈り申し上げます。

 

感情というのは難しいもので、時に爆発的な正のエネルギーを生み出すこともあれば、漫然と負のエネルギーを生み出し続けることもある。胸糞悪い事件が起こった後は何をするにも気持ちが乗らなくて、十分なポテンシャルを発揮できないことだってあるだろう。

しかし、どんな悲しい事件が起きても地球は回るし、明日は来る。私の日常はそう易々とは変わらないし、明日がテストって事実も動かざるものだ。ならば、いつまでも考え込んでいるわけにもいかない。

たしかに事件の収拾をつけようと頑張っている人たちはいる。家族を亡くして悲しんでいる人たちもいる。けれど、今私自身がここでくよくよしていても、何も変わりはしない。何も助けになれることはない。

ならば今はせめて、自分にできることを一つずつやるだけだ。自分には関係のないことだと切り捨てるわけではない。けれど、今が自分の出番でないことも確かだ。私はただ、試験の準備を黙々と進めなければならない。

必要になれば、寄付でもなんでも自分に出来る力添えを、全力で行えばいい。それまでは、まずは自分の生活を第一にしていようと思う。

気分が乗らないなら、好きな歌を聴けばいい。美味しいものを食べればいい。感情のコントロールの仕方は、自分自身が一番よく知っているはずだ。不謹慎なんて言わせておけばいい。気が向かないのも分かる。けれど、無理やり前を向くための、感情の着火剤だと割り切るのが大事だ。人間はやっぱり、良い気分の時の方が仕事だってなんだって効率よくできるように出来てるのだから。

それでもダメなら。無理せず休もう。どうしても気分が乗らない時だってあるさ。

 

まずはどんな時でも、自分を第一に。

 

2019.07.18 都内某所にて

『好き』とか、『熱意』とか。

また少し投稿があいてしまったが忙しい時期なので何卒ご容赦を。

課題、日課、テストの準備...etc

やらなければならないことは多いが、一つ一つ丁寧にこなしていきたい。

 

先日、今年ボードゲームの会社に就職した先輩が顔を見せてくれた。

その際、現在先輩が個人で制作中だというカードゲームを持ってきて試遊させてくれたのだが、システム面など非常にクオリティが高く、時間を忘れて楽しくプレイさせてもらった。ちなみに途中までは非常に調子よくプレイしていたのだが、終盤で一緒にプレイしていた後輩たちから結託してボコされ、最後はぐうの音も出ないほどの最下位に落ち着いた。絶対に許さない。

試遊ということで、先輩はプレイ中も僕らプレイヤーからの意見を積極的に募り、システム面などのさらなる改善を考えていて側で見ていてその熱意に驚かされた。普段は割とちゃらんぽらんなイメージのある先輩だったが、こう言った好きなことに対する情熱は本当に見習いたいところがある。

『好き』に全力を出せる人間を、私は尊敬している。

好きなことは、たしかに私たちの生きる理由で、原動力だ。しかしだからといって、好きに自らのあらゆるものを捧げられるかと問われれば、思わず思い悩むという人もいることだろう。かく言う私がそう言ったタイプで、どんなに好きなものを目の前にしても、ついかかる労力やコスト、保身などを先に考えてしまう。情けない話、“好き“の熱量よりも自分の身を優先してしまうのだ。

しかし、世の中には、確かにいる。周囲から見たらなんだか馬鹿らしく見えるほど、自分の“好き”に一生懸命な人間が。彼らは自分の“好き”に金を惜しまず、時間を惜しまず、労力を惜しまない。好きのために身を粉にして働き、寝る間も惜しんで時間を注ぎ、休日の貴重な時間すら費やすことを厭わない。そういった人間の人生は、どれだけ輝いているのだろう。

好きの熱量で、何か創作物を作ったり、記録を残したり、プロと見まごうスキルを体得したりと、好きに一生懸命な人は本当にカッコいい。それは“好き”を自らの最上に据えているからこそ、出来ることだ。そうまでいかなくても、身銭を切って、心血を注いで”好き“に向き合う人間を、笑う資格のある人間などいないのだ。

 

何かに傾ける、その情熱を大切に。

 

2019.07.16 都内某所にて