『備忘録』だとか、『日記』だとか。

日々のあれこれを記録する自己満足日記帳

第60回:『使ったり』とか、『使われたり』とか。

タイトルは全然まったくこれっぽっちも関係ないが、なんだか急に江ノ島に行きたくなってきた。鎌倉自体は行ったこともあるが、残念ながら江ノ電で鎌倉高校より先へは行ったことがないので、一度ゆっくり観光にし行ってみたいものである。

 

最近、スマホを家において外出する機会が増えた。

ひと昔前までは、文字通り肌身離さず携帯電話を携帯していたものだが、最近は普段使いする端末が増えたおかげかスマホへの依存度が下がり、気づけばスマホを置いて外出しているという場面も増えた。実際、音楽を聴く程度ならウォークマンなどで事足りるし、調べ物もとっさにできないのは少し歯がゆいが、どこかにメモを取って帰ってから確認すればいいだけの話でもある。意外とスマホがなくても困らないという場面は多い。

さすがに遠出するような機会であれば、きちんと携帯もしていくけれど。

高校の頃は、母にスマホ依存だなんだとよく小言を言われていた。実際、日がな一日スマホで、やれSNSだやれ動画だやれソシャゲだと、無限に時間を浪費していたような気がする。あの頃はこの小さな箱に、世界の全てが詰まっているような気さえした。実際には豊かな実世界の片鱗を、スマホを通じて覗いていたというだけの話なのに。

あの頃は、本当にスマホというガジェットにいいように使われていたような気がする。今がどうかと聞かれれば、まあそれもあまり自信はないのだが、少なくともあの頃の自分を客観的に見れるくらいには適切な距離を保てているのだと思いたい。

今はガジェットの数も増え、それらを日々なんとか使いこなしながら生きている。パソコンで課題をこなしながらiPadで調べ物をし、携帯で友人と連絡を取り合いながらウォークマンで音楽を嗜むなど、それパソコンとかiPad一つでも事足りるくない?と言われればぐうの音も出ない。

しかし依存先を分散させることは大事だ。これはガジェットに限らず、実生活でも応用の効く教えであるようにも思う。一つの物事に依存していると、いざというときに応用がきかなくて困ることもある。何より一つのガジェットに依存していると、いつのまにか自分が“使われている”側に回っていることすらあるのだから。

 

適材適所、必要な場面で必要なものをきちんと使いこなして生きたいものだ。

 

2019.07.11 都内某所にて

『世界』とか、『関心』とか。

課題に飽きて、だんだん課題に向き合う時間より作業用BGMを探す時間の方が増えてきた。これではいけないと思いつつも、結局無限の動画の海に漕ぎだしてしまう哀れな大学生なのであった。

 

YouTubeを作業用BGMにしていると、たまに思いもよらない出会いや発見がある。

最近は、今までまったく興味のなかったマジックの動画を見てよく唸っている。大半は、何だそんなタネなのかというものばかりだが、だからこそそれをホンモノに見せるマジシャンたちのテクニックに驚かされる毎日である。

YouTubeに限らず、インターネットの広大な海には私の知らない、思いもよらない知識や発想、趣味や世界がたくさん広がっている。もちろん中には賛同できない意見、興味を持てない事柄、そういったものもある。しかし一方で、私の視野を広げてくれる記事、私の興味をかきたてる話、私の世界を豊かに色づけてくれるたくさんの事柄が転がってもいる。

インターネットは窓だ。広い世界と私をつなぐ窓だ。世界は広大で、色豊かで、私のまだ知らないたくさんの事柄に溢れている。それをこれだけ容易に知ることの出来る今の時代は、きっとすごく恵まれているのだろう。

けれど、知らない世界に触れるのが昔に比べてずっと容易になったとは言っても、やはり自ら興味を持って覗いてみなければ、その世界は顔を覗かせてはくれない。興味・関心をもって、積極的に覗いてみればこそ、応えてくれるたくさんの物事がある。

どうか、知らない物事に手を伸ばす、その気持ちだけは忘れないでいきたいものだ。

 

そんなわけで、課題もあるので本日はこのくらいで。

 

2019.07.09 都内某所にて

『連絡を取り合う』とか、『顔を合わせる』とか。

今日は久しぶりにビックリするほど二度寝して、きちんと目が覚めたのは午後の二時近くだった。遅くまで作業していたとはいえ、こんな時間に起きるのでは結局効率が悪い。反省反省。夜更かしは効率が悪いと分かっていても、ついやってしまっていけない。

 

七月七日、本日は七夕だ。

せっかく年に一度、織姫と彦星が顔を合わせて会える日なのに、あいにく東京の空模様は冷たい。一日中しとしとと雨続きで、天の川の両対岸にいるであろう彼ら彼女らを思って悲しい気持ちになった。早く梅雨が明けてくれるといいのだが。

昔は年に一度しか会えないなんて随分気の長いことだと思っていたけれど、こうやって少し歳をとってみると、年に一度しか会えないなんてのは、案外日常の中にもありふれているものだと感じる。連絡こそたまにとりあっていても、一年に一度くらいしか顔を合わせる機会のない友人なんて、いくらでもいる。愛し合っている二人ならば、話も変わってくるのだろうが。

今は手紙や電話に加え、SNS上のメッセージの授受、Skypeなどのテレビ電話など、離れたところにいても連絡を取り合う手段は多種多様に存在する。無理に顔を合わせなくても、下手なご近所づきあいよりずっと密な関係を築けたりもする。携帯も何もない時代に比べれば、離れたところで生活することの弊害は、昔に比べてずっと少なくなったのではないだろうか。

しかし、やはりその場にいて、顔を合わせなければ分からないこともある。

私の実家はすぐ隣に叔母の家が建っており、従兄妹やその飼い猫が住んでいるのだが、最近その猫の元気があまりないらしい。すいぶんおばあちゃん猫なので仕方のないことなのだろうけど、もうそんなに長くもないのかもしれない。叔母や従兄と電話で話すことはあっても、猫と連絡を取り合う手段はない。テレビ電話を繋いでもらっても、多分向こうは私のことを認識出来ないだろう。

そういったとき、私は無性に実家に帰りたくなる。帰ってプリン(猫の名前)の頭を撫で、彼女の気の抜ける鳴き声を聞いて、一緒に日向ぼっこしたい気持ちに駆られる。こればっかりは、遠くにいては叶わない。電車で二時間、飛行機で一時間半、車で三十分移動しなくては得られない時間が、確かにある。

去年末に亡くなった祖母も、最後の方は認知症がひどく、とても電話やなにかで連絡を取れる状態ではなかった。顔を合わせてすらほとんど認識してもらえない状態で、それでも年に二、三度は両親と一緒に顔を見せに行っていた。最期は、施設の中で穏やかな時間を過ごす祖母と、結局半年も顔を合わせてない間に今生の別れとなった。

確かに今の時代、連絡自体は取ろうと思えばいつでも取れる。離れていても、昔に比べたらきっと、心と心の距離はずっと近くなった。

それでも、確かに側にいなければ伝わらないもの、得られない時間というのは存在するわけで。

 

顔を合わせて話が出来る。その、当たり前だがありがたい事実に、今日も感謝していきたい。

 

2019.07.07 都内某所にて

『影響』とか、『切磋琢磨』とか。

少しずつ夏休みの間の予定が埋まり始め、とうとう夏が来たんだなと実感する。あとは梅雨が明けて気持ちの良い青空が顔を覗かせてくれれば完璧なのだが、どうやら調べた感じ、梅雨明けまではもうしばらくはかかるようだ。気温が高くないのは幸いだが、一方でカラッとした晴空を期待せずにもいられない。

蝉の声が、今は待ち遠しい。

 

最近、周囲で少しずつブログを日記感覚でつける友人が増えてきた。

自分の生活を省察的に振り返るもの、もっと簡潔にライフログ感覚で記録するもの。人によってブログの内容もいろいろで、読んでいて面白いし参考にもなる。

自惚れかもしれないけれど、友人たちがブログを始めたのはこのブログの影響も少なくはないのかもしれないと、そんなことも思う。記事の中身は本当に薬にも毒にも下らないものばかりだけれど、「私がブログを書いている」というその事実が何かに少しでも影響を与えているというなら、こんなに嬉しいことはない。最近は隔日投稿になってしまっているとは言え、執筆のモチベーションも高まるというものだ。

人からどんどん良い所を吸収できる人間というのは、確かに存在し、そして強かだ。

私の人生にも、何度かそういう類の人間と接点を持つ機会があった。そしてその度に、唸らされたものである。

人のやっている良い習慣を即座に自分の生活に取り入れたり、人から勧められた今まで読んだことのないタイプの本を即座に買ってきて読んだり。そういった行為は、簡単なようで実は意外と億劫だったりする。参考にしようとは思っても、要は今までの自分の生き方、やり方と違ったことを始める訳だから、そこには多少なりともエネルギーを要する。私は特に面倒臭がりなタチだから、余計にそういった行為に対するハードルは高く感じてしまう。

自分が“いいな“とか”参考になるな“と感じた行為に対する瞬発力が異様に高い人間は、絶対に強い。自分にプラスになること、益になることに対し、ある種貪欲に向かっていけるというのは立派な才能だと思う。私はそんな彼らを、いつか自分もそういうふうに変わっていければいいなと、そんな敬意と畏怖を持って遠くから眺めているのである。

友人たちのブログを眺める。彼らのブログは、デザインが一工夫されていたり、ブログの各機能を遺憾なく使いこなしていたり、既に私より二歩三歩先を行くような内容のものばかりだ。自分の不器用さに泣けてくる。

けれど、互いを参考に、高め合える関係というのは悪くない。

誰だって自分なりに頑張っている。目に見える頑張りだけが評価されるなんてことは決してないし、むしろ私は見えない努力こそ賞賛されるべきものだと考えている。

けれど、その中で私のこの備忘録は、人の目につくようなコンテンツで、それを評価してくれるような友人、似たような形で共に頑張ろうとする友人にも恵まれた。

 

ならばその事実に感謝して、今日も明日も、自分のために文字を綴っていこう。

 

2019.07.05 都内某所にて

『メモ』とか、『思いつき』とか。

twitterの方でも少し断ったけれど、こちらでも改めて。

最近大学の課題の量がえげつないので、しばらくこのブログは隔日投稿で頑張ろうと思う。初めは毎日投稿を目標に掲げていたのに情けない話だが、無理に抱え込んで全部中途半端な結果、というのは私の望むところでもないので、恥を忍んでしばらくはこのような形で頑張ろうと思う。無理に背伸びをしても仕方がない。等身大の自分で、やれるとことをきちんとこなしていくつもりだ。

 

さて、今日は「メモ」の重要性について。

去年、興味があって半年間、友人と表参道にあるシナリオの教室に通っていた。週に一回二時間の授業で、主にドラマの脚本に関する様々な書き方や技法、考え方について教わった。授業内容もそうだが、いろいろな年代・職業の人が通っていて、そこの交流もいい刺激になって楽しかった。それについては、機会があればまた別の記事で。

さて、その授業の中で非常に印象に残っているのが、「ミソ帳」つまりメモ帳を取ることの重要性について説かれたことだ。

人間は忘れていく生き物だ。それは意識したからどうこうなるというものではない。ごく自然な、構造上の問題として、どうしても忘却という現象は発生してしまう。特に思いつきのアイディアなんていうものは、生きる上で直接私たちの生活に関係してくるようなものではない。人が眠っているときに見た夢を忘れてしまうように、ごくごく自然なこととして、記憶の海に沈んでしまうものだ。

そう言った儚い、しかしときに重要なものとなり得るアイディアを拾い上げるのが、メモというものの役割である。

ダヴィンチ、エジソンアインシュタインなどもメモ魔だったという話もある。歴史的な天才たちであれ、その功績の裏には、きちんと日常の思いつきを文字に残す営みがあったということである。どれだけメモというものが大事が、分かることだろう。

私も普段からなるだけメモを取ろうと意識はしているつもりだが、これがなかなか難しいものである。メモを取ること自体を忘れてしまうのだから、どうしようもない。「メモを取ること」とメモを取っても仕方がないし、メモ取りのジレンマである。

ただそれでも、思いつきを記録に残そうとする努力を怠るべきではない。特に私のような、物を書くことに対して人より少しばかり思い入れのある人間ならなおのことだ。どこにアイディアの元が転がっているか分からない。アンテナを伸ばすことと同時に、アンテナにかかったものを即座にメモする貪欲さを忘れないようにしたい。

 

大事なことも、そうじゃないことも、たくさんメモメモ。素敵なアイディアのきっかけは、きっといつだって、日常の中に。

 

2019.07.03ちょっと過ぎ 都内某所にて

『モノ』とか、『作る人』とか。

最近セブンの冷凍餃子にハマっている。量が割と少な目なのがむしろ有難い。何より安い。サラダを一緒に買ってもほどほどの値段なので健康にも気を使える優れものだ。

 

この週末、自宅のテレビ周りの簡単なリフォームを行った。

少し前、縁あって人様からNintendo Switchを頂いた。少し遅い誕生日プレゼントということらしく、本当にありがたいことである。社会人のボーナスさまさまである。

これで我が家にはPS4、友人のお下がりのPS3、switchが揃ったことになる。PS2wiiで時代の止まっていた実家での生活を思えば、すさまじい発展具合だ。

ちなみにPS4と3に互換性はなく、3ではPS1や2のソフトなどもプレイできるためなにかと便利なのである。nasneというテレビチューナー経由でテレビも観れるし、CD再生機能までついているのだから至れり尽くせりである。

今回テレビ周辺機器が増えるということで、コードの接続関係をより便利にするために、Amazonでテレビ台を購入した。今までは質素に引越しの時のダンボールをテレビ台代わりにしていたのだが、あまりにみすぼらしいのでいつかどうにかしなければと思っていた。そう考えると、やっとの購入と言っても過言ではない。

組み立ては少し面倒だったが、幸い一人でもできる範囲の内容だったので、一時間弱かけてなんとかかんとか組み上げた。不器用な私でも作れるほど説明書が丁寧でありがたかった。

作業をしながら、こんな台だって最初から組み上がっているものではないのだと、そんな当たり前のことを改めて思う。思えば、私の住んでいるこのアパートだって、普段通っている大学の校舎だって、新宿のビル群だって、或いはそのなかの内装だって、初めからそうやって存在している訳ではない。誰かが頭を捻って設計して、汗水垂らして組み上げて、初めて出来上がるものだ。あまりにも当然のようにその存在を享受してきたから、意外とその事実を意識してこなかったような気がする。

私の雑な作業でも綺麗に組み上がったその台を見て、モノを作る方々への敬意を新たにする。彼ら存在があってこそ、私たちのこの生活は成り立つ。その事実を、意識することを忘れてはならないだろう。

 

さて、七月も今まで通り、今まで以上に励んでいこう。

 

2019.07.01 都内某所にて

『六月』とか、『振り返り』とか。

やがて六月も終わりを迎える。早かったなと感じるのは、密度が高かったからか、空虚だったからか、果たして。前者であればいいなと、そう願うばかりだ。

 

先月に続いて、今回も携帯につけているスケジュール帳兼ライフログを眺めながら、私個人にとっての六月を少しばかり振り返っていきたい。

六月の前半はなかなか忙しかった。いろいろなイベントの予定が固まっていて、なかなか自分の時間を作れなかったことに少しストレスを感じていたような気がする。ゼミの合宿などは仕方がないとして、自分で行くと決めたイベントのせいで忙しいのに関しては、完全に自業自得な気もするが。

後半は、今度は課題ややらなきゃいけないことに追われていた印象だ。インターン関係や、家族の都合で少し頭を悩ませるようなこともあった。一方で無益な時間の使い方をしてしまったなぁと感じるような場面も多数あり、やはり今後の課題は時間の有効活用だなと反省もする。この学びは来月以降にきちんと生かしたい。

中盤は十日ほどブログをお休みしたため、ここに書けてないあれやこれやといった出来事もあった。今更語るようなほどのことでもないので割愛するが、やはり物事を語るにも旬というものがあるなと感じる今日この頃である。新鮮な想いは結局新鮮なうちに文字にしたためなければ、思い出として少しずつ薄れてゆく。記録することの重要性を改めて認識する。

この備忘録だってコツコツ続けていけば、いつか自らの大切な財産になる日が来るかもしれない。ならば、書かなければな。いつかこの文字群を、大切に思えるようになる日まで。

日付が変われば、七月。大学の前期授業もいよいよ大詰めに入り、忙しい時期になっていく。より密できちんとしたスケジューリングが求められることだろう。気候に行事に、本格的な夏の色が強くなってくる時期でもある。夏休みに向けて、バイト代もガッツリ稼ぎたい気もする。多忙で、しかし充実したひと月になる予感が、ある。

 

梅雨明けの突き抜けるような青空が、今から楽しみだ。

 

2019.06.30 都内某所にて