『備忘録』だとか、『日記』だとか。

日々のあれこれを記録する自己満足日記帳

『凡庸』とか、『特別』とか。

最近二年越しくらいにポケモンGoを再開したのだが、勝手が分からなさすぎるのと携帯のスペックが残念なのとで、満足にポッチャマも捕まえられないのがもどかしい。けどポケストップ巡りは楽しい。アイテムが溢れる溢れる。

 

コミケにあわせて高校時代の友人が中国地方から東京に遊びに来た。東京は久しぶりらしいので、案内する側にも力が入るというものだ。

今日はその友人たっての希望で一緒に門前仲町を散策したのだが、どうやら彼の普段親しんでいる界隈では門前仲はいわゆる一つの“聖地“らしく、しばしば私には分からないような場所で感動していて非常に興味深かった。

世の中には無数のモノがあり、場所があり、人がいる。それぞれのものにはみな意味があり、価値がある、というのは確かに揺るがぬ事実である。しかしその意味や価値というのも、それを認識する人間によって千変万化に変わっていくものであるというのも、また確かな事実であるのだ。

聖地の概念なんてまずそうだ。一見何の変哲も無い、事実何か特筆すべき特異さを持ち合わせないような場所であっても、一度そこがドラマや映画に登場したり、あるいは誰か有名人のお気に入りの場所として紹介されたりすれば、ひとたびそこはそのコンテンツを親しむ人間にとって『特別』な場所となる。その場の機能的な価値は何一つ変わっていないにも関わらず、だ。

今日の体験も、私にとっては何でも無いような凡庸な場所で友人が感動していたのは、友人にとってその場が『特別』な価値を持っていたからであって、それは共通の認識を持つ相手でなければ通用しない『特別』だった。多分彼と似たような界隈に親しんでいる人間であれば同じく『特別』視されるのだろうし、そうでない人からしたら変わらず凡庸な場所であることだろう。同じ世界でも、見ている人によってその世界の見え方が確実に違っている。私はそれが、たまらなく面白いことだと感じるのだ。

 

私の感じる『特別』を大切に、明日も胸を張って生きたいものである。

 

2018.08.10 都内某所にて