『備忘録』だとか、『日記』だとか。

日々のあれこれを記録する自己満足日記帳

『メモ』とか、『思いつき』とか。

twitterの方でも少し断ったけれど、こちらでも改めて。

最近大学の課題の量がえげつないので、しばらくこのブログは隔日投稿で頑張ろうと思う。初めは毎日投稿を目標に掲げていたのに情けない話だが、無理に抱え込んで全部中途半端な結果、というのは私の望むところでもないので、恥を忍んでしばらくはこのような形で頑張ろうと思う。無理に背伸びをしても仕方がない。等身大の自分で、やれるとことをきちんとこなしていくつもりだ。

 

さて、今日は「メモ」の重要性について。

去年、興味があって半年間、友人と表参道にあるシナリオの教室に通っていた。週に一回二時間の授業で、主にドラマの脚本に関する様々な書き方や技法、考え方について教わった。授業内容もそうだが、いろいろな年代・職業の人が通っていて、そこの交流もいい刺激になって楽しかった。それについては、機会があればまた別の記事で。

さて、その授業の中で非常に印象に残っているのが、「ミソ帳」つまりメモ帳を取ることの重要性について説かれたことだ。

人間は忘れていく生き物だ。それは意識したからどうこうなるというものではない。ごく自然な、構造上の問題として、どうしても忘却という現象は発生してしまう。特に思いつきのアイディアなんていうものは、生きる上で直接私たちの生活に関係してくるようなものではない。人が眠っているときに見た夢を忘れてしまうように、ごくごく自然なこととして、記憶の海に沈んでしまうものだ。

そう言った儚い、しかしときに重要なものとなり得るアイディアを拾い上げるのが、メモというものの役割である。

ダヴィンチ、エジソンアインシュタインなどもメモ魔だったという話もある。歴史的な天才たちであれ、その功績の裏には、きちんと日常の思いつきを文字に残す営みがあったということである。どれだけメモというものが大事が、分かることだろう。

私も普段からなるだけメモを取ろうと意識はしているつもりだが、これがなかなか難しいものである。メモを取ること自体を忘れてしまうのだから、どうしようもない。「メモを取ること」とメモを取っても仕方がないし、メモ取りのジレンマである。

ただそれでも、思いつきを記録に残そうとする努力を怠るべきではない。特に私のような、物を書くことに対して人より少しばかり思い入れのある人間ならなおのことだ。どこにアイディアの元が転がっているか分からない。アンテナを伸ばすことと同時に、アンテナにかかったものを即座にメモする貪欲さを忘れないようにしたい。

 

大事なことも、そうじゃないことも、たくさんメモメモ。素敵なアイディアのきっかけは、きっといつだって、日常の中に。

 

2019.07.03ちょっと過ぎ 都内某所にて

『モノ』とか、『作る人』とか。

最近セブンの冷凍餃子にハマっている。量が割と少な目なのがむしろ有難い。何より安い。サラダを一緒に買ってもほどほどの値段なので健康にも気を使える優れものだ。

 

この週末、自宅のテレビ周りの簡単なリフォームを行った。

少し前、縁あって人様からNintendo Switchを頂いた。少し遅い誕生日プレゼントということらしく、本当にありがたいことである。社会人のボーナスさまさまである。

これで我が家にはPS4、友人のお下がりのPS3、switchが揃ったことになる。PS2wiiで時代の止まっていた実家での生活を思えば、すさまじい発展具合だ。

ちなみにPS4と3に互換性はなく、3ではPS1や2のソフトなどもプレイできるためなにかと便利なのである。nasneというテレビチューナー経由でテレビも観れるし、CD再生機能までついているのだから至れり尽くせりである。

今回テレビ周辺機器が増えるということで、コードの接続関係をより便利にするために、Amazonでテレビ台を購入した。今までは質素に引越しの時のダンボールをテレビ台代わりにしていたのだが、あまりにみすぼらしいのでいつかどうにかしなければと思っていた。そう考えると、やっとの購入と言っても過言ではない。

組み立ては少し面倒だったが、幸い一人でもできる範囲の内容だったので、一時間弱かけてなんとかかんとか組み上げた。不器用な私でも作れるほど説明書が丁寧でありがたかった。

作業をしながら、こんな台だって最初から組み上がっているものではないのだと、そんな当たり前のことを改めて思う。思えば、私の住んでいるこのアパートだって、普段通っている大学の校舎だって、新宿のビル群だって、或いはそのなかの内装だって、初めからそうやって存在している訳ではない。誰かが頭を捻って設計して、汗水垂らして組み上げて、初めて出来上がるものだ。あまりにも当然のようにその存在を享受してきたから、意外とその事実を意識してこなかったような気がする。

私の雑な作業でも綺麗に組み上がったその台を見て、モノを作る方々への敬意を新たにする。彼ら存在があってこそ、私たちのこの生活は成り立つ。その事実を、意識することを忘れてはならないだろう。

 

さて、七月も今まで通り、今まで以上に励んでいこう。

 

2019.07.01 都内某所にて

『六月』とか、『振り返り』とか。

やがて六月も終わりを迎える。早かったなと感じるのは、密度が高かったからか、空虚だったからか、果たして。前者であればいいなと、そう願うばかりだ。

 

先月に続いて、今回も携帯につけているスケジュール帳兼ライフログを眺めながら、私個人にとっての六月を少しばかり振り返っていきたい。

六月の前半はなかなか忙しかった。いろいろなイベントの予定が固まっていて、なかなか自分の時間を作れなかったことに少しストレスを感じていたような気がする。ゼミの合宿などは仕方がないとして、自分で行くと決めたイベントのせいで忙しいのに関しては、完全に自業自得な気もするが。

後半は、今度は課題ややらなきゃいけないことに追われていた印象だ。インターン関係や、家族の都合で少し頭を悩ませるようなこともあった。一方で無益な時間の使い方をしてしまったなぁと感じるような場面も多数あり、やはり今後の課題は時間の有効活用だなと反省もする。この学びは来月以降にきちんと生かしたい。

中盤は十日ほどブログをお休みしたため、ここに書けてないあれやこれやといった出来事もあった。今更語るようなほどのことでもないので割愛するが、やはり物事を語るにも旬というものがあるなと感じる今日この頃である。新鮮な想いは結局新鮮なうちに文字にしたためなければ、思い出として少しずつ薄れてゆく。記録することの重要性を改めて認識する。

この備忘録だってコツコツ続けていけば、いつか自らの大切な財産になる日が来るかもしれない。ならば、書かなければな。いつかこの文字群を、大切に思えるようになる日まで。

日付が変われば、七月。大学の前期授業もいよいよ大詰めに入り、忙しい時期になっていく。より密できちんとしたスケジューリングが求められることだろう。気候に行事に、本格的な夏の色が強くなってくる時期でもある。夏休みに向けて、バイト代もガッツリ稼ぎたい気もする。多忙で、しかし充実したひと月になる予感が、ある。

 

梅雨明けの突き抜けるような青空が、今から楽しみだ。

 

2019.06.30 都内某所にて

『節目』とか、『楽しみ』とか。

突然の夕立に、「夏だなぁ」と妙な感慨を覚えた昨日の夕刻。蒸し蒸しした土っぽい雨のにおいに、何故だか無性に懐かしさを感じてしまう。傘もなしで雨に降られているのに、心が踊った。やっぱり私は、夏が好きなようだ。

 

早いもので、六月もそろそろ終わろうという時期に来ている。明日で2019年も半分が終わり、後半戦へ突入する。夏だ。夏が来る。水着と浴衣と夏イベの軍資金を持てい。

しかし昔に比べて、一ヶ月や二ヶ月が過ぎるのなんて、本当にあっという間のことに感じる。ついこの間まで桜が咲いていた気がするのに、もうクーラーが必要な時期になってきた。なんだか時の流れに一人だけ置いていかれている気分だ。

季節の変わり目であるとともに、七月は番組編成の時期でもある。大規模なのは主に春と秋だが、ドラマやアニメなどは三ヶ月ごとに番組が切り替わる。ワンクールごとに新たな楽しみがあるというのはいいものだ。

新番組や、ゲームの定期アップデート、好きな漫画の発売日。定期的に訪れる楽しみのお陰で、今日も元気に生きていける。趣味は心の活力だ。

そういう意味でも、こういうクールの変わり目は分かりやすく新鮮なモノを得られるのでいい。新しい番組、新しい作品に出会うことは、視野を広げるきっかけにもなる。

 

生活の節目節目を大切に、残り半年も楽しんでいこう。

 

2019.06.29 都内某所にて

『文章』とか、『熱量』とか。

近所のガストのドリンクバー、ドクターペッパーを置いているの中々評価できる。最近週三くらいでドクペを飲まないと気が済まないので、Majiで糖尿病になる5秒前って感じ。年齢的にもいい加減そろそろ気を使わねばなるまいて。

 

さて、課題がヤバくてファミレスでカンズメをしている真っ最中である。

そろそろ大学も、前期のまとめの時期。テストにレポートに忙しくなる時期なので、今のうちに少しでも片せるものを片して置かねばあとでにっちもさっちもいかなくなる。いや、もうなりそう。助けて。

泣きながらパソコンに向き合っていたら、隣の卓から聞き慣れた単語が聞こえてきた。思わず隣の卓を盗み見る。

その卓では、中年の男性と若い女性の二人が熱く意見を交わしていた。女性はパソコンに何かを打ち込みながら、男性がそれにアドバイスをするような形で会話が進んでいる。どうやら女性はブログの記事を書いているらしい。

ほう、ブログ。粗末ながら、私もブログを書いているのよと、心の中でその二人に声をかける。見知らぬ人に勝手に親近感を覚える気持ち悪い男が一人。身近にブログを書いている人があまりいないからか、妙に二人の会話が気になって仕方がない。

いかんいかん、あまり不躾に会話に聞き耳をたてるのも失礼だ。私は視線をパソコンの画面に戻し、課題の続きを進めていく。そうだ、変なことに時間を取られている場合ではない。私は私のやるべきことをせねば。

コーヒーを数杯、胃に流し込み、ワードファイルのページを埋めていく。気づけば店に来て数時間が過ぎている。ふと隣を見れば、相変わらず二人が意見を交わしている。どうやったら伝えたいことが書けるのか、とか、そういったことがずっと隣から聞こえている。意識していなくても耳に入ってくるほど、活発な議論。

何かを伝えようとする気持ち。そのために悪戦苦闘する気持ち。

そういったものをこの人たちも、感じている。そう考えると、気がつけば胸の内が知らず熱くなっていた。

世の中には、さまざまな文章が溢れている。そしてそれらは、決して自動でこの世に表出してくるものではない。見ず知らずの誰かが、想いを込めて、時間をかけて綴っている。それがなんだか、肌で感じられる時間だった。

誰も彼もが懸命に言葉を綴っている。言葉も文字も日常に溢れる何気ないものだけれど、だからこそそれを使いこなすことは、実はとても難しい。悩んで、悩み抜いて、みんな想いを言葉に綴るのだ。

 

文字に込める、その熱量を、私も大事にしていきたい。

 

2019.06.27 都内某所にて

『怠惰』とか、『責任』とか。

マックポテトLサイズ結構デカイな。せっかくセールをやってるので晩飯にと思ったのだが、二つ買うだけで随分お腹が膨れてしまって、追加で買ったバーガーを持て余してしまった。コスパは最高だが考えて買わねばなるまいて。

 

さて、六月もそろそろ終わりの時期、夏の足音がもうすぐそこまで近づいてきた初夏のある日のこと。ついに我が家にも“奴”が出てしまった。

それはこの前の土曜、久し振りに友人と夜遅くまで電話で話し込んでいた時のこと。ふと視界の端に蠢くものがあり、私は何の気なしに視線を動かしてみて、絶望した。身体が固まって、思考も固まった。ついで情けない声が出て、後ずさった。ああ、ついに、ついに我が家へ奴の侵入を許してしまった。目の前が真っ暗になった。

あまり昆虫や虫の類に苦手意識を感じたことはない。見た目があまりに気持ち悪い生き物なら話は別だが、それでも大方の生き物は余程近づかない限り基本的には問題ない。それでも、やはり奴は別格だ。見た目が、動きが、存在がおぞましい。人間は遺伝子の奥の奥まで奴への恐怖感が植え付けられていると言われても信じてしまうほど、奴への精神的耐性が皆無だ。もうこればっかりは仕方がないのだ。こんな情けない男子をどうか許してくれ。人間出来ることと出来ないことがあるのだ。

幸いすぐ近くに殺虫剤があったのでそのときは事なきを得たが、それでも精神的ショックは大きかった。今のアパートに越してきて一年と数ヶ月。たしかにあまり高さのあるアパートではないが、それでも三階だし大丈夫だろうと根拠のない自信を抱いていた。越してきたばかりの時にコンバットも数カ所仕掛けた。これで大丈夫だろうと、なんだか高を括っていたのだ。

甘い。甘すぎた。その程度で奴の出現を防げるのなら苦労はしない。ホームセンターの片隅にあんなに大量の対G決戦アイテムが用意してあるのは訳があるのだ。片手間で相手をしていい敵じゃない。これから迎える夏、私は常に奴への恐怖を忘れぬまま我が家でのひと時を過ごさねばならない。涙が出る。

思えばこの一年と少しの間、いろいろなG対策をネットサーフィンの中で見つける機会があった。曰くミントの香りが苦手で玄関におくと対策になる。曰く、ある香辛料の存在も苦手で家の中に数カ所配置すると出現を抑えられる。曰く、寒い時期に一度室内をきちんと一日乾燥させておくと卵を孵化させず春以降の出没を減らせる、など。他にも室内のこまめな掃除、部屋に不要なダンボールを残さないなど、やれたことはいくらでもあった。しかし、結局実行できたものはほとんどない。今でも引越しの際に持ってきたダンボールが部屋の隅に物置として鎮座しているし、これでは対策も何もあったものではない。

 

「お前がいつか出会う災いは、お前がおろそかにしたある時間の報いだ」とは、ナポレオン・ボナパルトの言葉だという。

 

身につまされる言葉だ。私の人生、そういうことの繰り返し。いつかの怠惰の記憶が、巡り巡って今の自分の首を絞める。そんなことばっかりだ。

今回の事件もそう。あの黒い生物は、私のこれまで疎かにしてきた時間、自らの怠惰の象徴のようなものなのかもしれない。ろくに対策すらしてこなかった自分には、奴の存在に文句をいう資格すらないのだ。

嘆いていても仕方ない。自分がおろそかにした時間の責任は自分で取る必要がある。今こそ殺虫剤とコンバットを片手に立ち向かうときだ。これからより暑くなる前にケリをつける。徹底抗戦だ。負けてたまるか。

 

自分の不始末は自分でつける。みんなも部屋は清潔にね。

 

2019.06.26 都内某所にて

第50回:『再起』とか、『やり直す』とか。

久し振りに本格的に声が枯れてしまった。出涸らしのお茶のような情けない声しか出ないが、そもそもそんなに話す相手もいなかった。不幸中の幸い。涙が出る。

 

さて、早速だが、10日間記事の更新を休んだことについて。

まずは謝罪。何の報告もなしにしばらく記事を休んでしまって、素直に申し訳ない。このブログを欠かさず読んでくれている数少ない友人と、何より頑張って毎日投稿しようと意気込んでいた2ヶ月前の自分への、ごめんなさい。

たしかに15、16の土日は忙しかった。やることも予定もいろいろ入っていた。けれど、じゃあ仕方ないという気持ちで、当たり前のように記事を書かず布団についた自分に気づいた時、絶望した。結局、結局何も成長していないではないか。ブログを始めて早二ヶ月、まだ一度も一週間続けて記事を書けたことはない。いや、むしろ数日頑張ったし今日は休んでもいいやって、そんなことばかり考えていた気がする。

この10日間は、自分の怠惰な気持ちや記事をしばらく休んでしまったことへの罪悪感、そういったものと向き合うための時間だった。休むことが当たり前になっていた自分へ喝を入れる期間と言ってもいいかもしれない。言い訳も何もせず、ただ何日も記事を書かず過ごす。何か理由をつけて休むことも考えたが、それではきっと意味がなかった。サボりとしてこの10日間をむざむざ過ごす。そしてそんな自分と向き合う。それが、日頃の怠惰を見て見ぬ振りをして過ごしてきた自分への罰だと思った。

妙なやる気や正義感を飼い殺してここまで来た。空虚ではりぼてな責任感と自尊心を粉々に砕くくらいのことをしなければ、きっと自分の中に育った怠惰の芽が自らの全てを飲み込むような気さえした。これは必要な罰で、処置で、治療だったんだと思う。私が、次へ向かうための。

実際、この期間に随分いろいろなことを考えた。人生に関することだったり、就活に関することだったり、もっとくだらないことだったり、もっと根源的なことだったり。長いこと記事を更新していないことに対して焦りを感じたという事実だけが、唯一の救いだった。少しは自分の中に、この営みが根付いていたのだと、そんな安堵を覚える。

さて、長々と贖罪や言い訳をしていてもしかたない。言葉ではなんとも言える。それでこの十日間の穴埋めになるわけでもない。

結局また始めることでしか、新たな決意の証明にはならない。前を向くのは誰でもできる。そこから一歩を踏み出して初めて、これが再起だと胸を張って言えよう。

 

また、最初からくらいのつもりで。一つずつ積み上げたい。

 

2019.06.25 都内某所にて