『備忘録』だとか、『日記』だとか。

日々のあれこれを記録する自己満足日記帳

『怠惰』とか、『責任』とか。

マックポテトLサイズ結構デカイな。せっかくセールをやってるので晩飯にと思ったのだが、二つ買うだけで随分お腹が膨れてしまって、追加で買ったバーガーを持て余してしまった。コスパは最高だが考えて買わねばなるまいて。

 

さて、六月もそろそろ終わりの時期、夏の足音がもうすぐそこまで近づいてきた初夏のある日のこと。ついに我が家にも“奴”が出てしまった。

それはこの前の土曜、久し振りに友人と夜遅くまで電話で話し込んでいた時のこと。ふと視界の端に蠢くものがあり、私は何の気なしに視線を動かしてみて、絶望した。身体が固まって、思考も固まった。ついで情けない声が出て、後ずさった。ああ、ついに、ついに我が家へ奴の侵入を許してしまった。目の前が真っ暗になった。

あまり昆虫や虫の類に苦手意識を感じたことはない。見た目があまりに気持ち悪い生き物なら話は別だが、それでも大方の生き物は余程近づかない限り基本的には問題ない。それでも、やはり奴は別格だ。見た目が、動きが、存在がおぞましい。人間は遺伝子の奥の奥まで奴への恐怖感が植え付けられていると言われても信じてしまうほど、奴への精神的耐性が皆無だ。もうこればっかりは仕方がないのだ。こんな情けない男子をどうか許してくれ。人間出来ることと出来ないことがあるのだ。

幸いすぐ近くに殺虫剤があったのでそのときは事なきを得たが、それでも精神的ショックは大きかった。今のアパートに越してきて一年と数ヶ月。たしかにあまり高さのあるアパートではないが、それでも三階だし大丈夫だろうと根拠のない自信を抱いていた。越してきたばかりの時にコンバットも数カ所仕掛けた。これで大丈夫だろうと、なんだか高を括っていたのだ。

甘い。甘すぎた。その程度で奴の出現を防げるのなら苦労はしない。ホームセンターの片隅にあんなに大量の対G決戦アイテムが用意してあるのは訳があるのだ。片手間で相手をしていい敵じゃない。これから迎える夏、私は常に奴への恐怖を忘れぬまま我が家でのひと時を過ごさねばならない。涙が出る。

思えばこの一年と少しの間、いろいろなG対策をネットサーフィンの中で見つける機会があった。曰くミントの香りが苦手で玄関におくと対策になる。曰く、ある香辛料の存在も苦手で家の中に数カ所配置すると出現を抑えられる。曰く、寒い時期に一度室内をきちんと一日乾燥させておくと卵を孵化させず春以降の出没を減らせる、など。他にも室内のこまめな掃除、部屋に不要なダンボールを残さないなど、やれたことはいくらでもあった。しかし、結局実行できたものはほとんどない。今でも引越しの際に持ってきたダンボールが部屋の隅に物置として鎮座しているし、これでは対策も何もあったものではない。

 

「お前がいつか出会う災いは、お前がおろそかにしたある時間の報いだ」とは、ナポレオン・ボナパルトの言葉だという。

 

身につまされる言葉だ。私の人生、そういうことの繰り返し。いつかの怠惰の記憶が、巡り巡って今の自分の首を絞める。そんなことばっかりだ。

今回の事件もそう。あの黒い生物は、私のこれまで疎かにしてきた時間、自らの怠惰の象徴のようなものなのかもしれない。ろくに対策すらしてこなかった自分には、奴の存在に文句をいう資格すらないのだ。

嘆いていても仕方ない。自分がおろそかにした時間の責任は自分で取る必要がある。今こそ殺虫剤とコンバットを片手に立ち向かうときだ。これからより暑くなる前にケリをつける。徹底抗戦だ。負けてたまるか。

 

自分の不始末は自分でつける。みんなも部屋は清潔にね。

 

2019.06.26 都内某所にて

第50回:『再起』とか、『やり直す』とか。

久し振りに本格的に声が枯れてしまった。出涸らしのお茶のような情けない声しか出ないが、そもそもそんなに話す相手もいなかった。不幸中の幸い。涙が出る。

 

さて、早速だが、10日間記事の更新を休んだことについて。

まずは謝罪。何の報告もなしにしばらく記事を休んでしまって、素直に申し訳ない。このブログを欠かさず読んでくれている数少ない友人と、何より頑張って毎日投稿しようと意気込んでいた2ヶ月前の自分への、ごめんなさい。

たしかに15、16の土日は忙しかった。やることも予定もいろいろ入っていた。けれど、じゃあ仕方ないという気持ちで、当たり前のように記事を書かず布団についた自分に気づいた時、絶望した。結局、結局何も成長していないではないか。ブログを始めて早二ヶ月、まだ一度も一週間続けて記事を書けたことはない。いや、むしろ数日頑張ったし今日は休んでもいいやって、そんなことばかり考えていた気がする。

この10日間は、自分の怠惰な気持ちや記事をしばらく休んでしまったことへの罪悪感、そういったものと向き合うための時間だった。休むことが当たり前になっていた自分へ喝を入れる期間と言ってもいいかもしれない。言い訳も何もせず、ただ何日も記事を書かず過ごす。何か理由をつけて休むことも考えたが、それではきっと意味がなかった。サボりとしてこの10日間をむざむざ過ごす。そしてそんな自分と向き合う。それが、日頃の怠惰を見て見ぬ振りをして過ごしてきた自分への罰だと思った。

妙なやる気や正義感を飼い殺してここまで来た。空虚ではりぼてな責任感と自尊心を粉々に砕くくらいのことをしなければ、きっと自分の中に育った怠惰の芽が自らの全てを飲み込むような気さえした。これは必要な罰で、処置で、治療だったんだと思う。私が、次へ向かうための。

実際、この期間に随分いろいろなことを考えた。人生に関することだったり、就活に関することだったり、もっとくだらないことだったり、もっと根源的なことだったり。長いこと記事を更新していないことに対して焦りを感じたという事実だけが、唯一の救いだった。少しは自分の中に、この営みが根付いていたのだと、そんな安堵を覚える。

さて、長々と贖罪や言い訳をしていてもしかたない。言葉ではなんとも言える。それでこの十日間の穴埋めになるわけでもない。

結局また始めることでしか、新たな決意の証明にはならない。前を向くのは誰でもできる。そこから一歩を踏み出して初めて、これが再起だと胸を張って言えよう。

 

また、最初からくらいのつもりで。一つずつ積み上げたい。

 

2019.06.25 都内某所にて

『ラジオ』とか、『音楽』とか。

家に牛乳があったのに間違って新しい牛乳を買ってしまって、冷蔵庫に牛乳パックが二本並んでしまった。これはこれでレオンみがあって悪くない。まあ、牛乳なんていくらでも飲むしな。出費における飲み物代の割合が結構大きいどうも私である。

 

最近YouTubeをダラダラと見ながら、これ別に音声だけでいいなと気付いて作業のお供にする機会が増えた。皿を洗ったり、部屋を清掃したり、そういう作業はラジオ感覚でYouTubeを垂れ流しながらやるに限る。もちろん普通のラジオでもいい。手は動かしていても耳は手隙ならぬ耳隙なので、そんなときは作業用BGMの存在がありがたい。

中学生の頃は、好きでよくラジオを聞いていた。夜更けの勉強のお供に、机上のオーディオからの音に耳を傾けていたのはいい思い出だ。結局ラジオに気を取られて勉強に手がつかなくなるところまで含めてご愛嬌という感じだった。

今でも電車やバスの移動時間に、携帯でラジオを聴くことが多い。音楽を聴くのもいいが、人の話というのは笑えることもあれば勉強になることもあり、なかなか飽きることなく聴いていられる。やはりラジオは面白い。

しかし、ラジオを流しながら作業をするのと音楽を流しながら作業をするのは、似ているようで実は全然違う行為である。ラジオの音声はつまるところ人の声で、会話で、文章だ。その文章を理解するためには、脳のキャパシティの多くを使わなければならない。別に思考を要求される作業に対し、やはり思考を要求されるラジオなどの聴取は向かないように思う。さっきの勉強がいい例だ。勉強をしながらラジオを聴くなんて、結局どっちつかずになっている様子がありありと想像できる。そういうときはせめて音楽などのBGMにした方が、パフォーマンスも向上するというものだろう。

逆に、あまり細かな思考が必要でない作業であれば積極的にラジオやオーディオブックなどを利用していきたいものだ。公共交通機関での移動中、家事炊事などの作業中、ランニングやトレーニングなどの最中。ラジオの話題が何か人生観を変える大きな出会いにつながることだってあるかもしれない。言葉の力はやはり偉大である。

 

ラジオに音楽に、上手に付き合っていきたいものだ。

 

2019.06.14そこそこ過ぎ 都内某所にて

『タピオカ』とか、『マナー』とか。

今日は良い天気で、絶好の洗濯物干し日和だった。ここ数日雨天が続いていたので、たまのこういう天気はありがたい。

 

今日、訳あって一日中タピオカ店の前にいた。

そういえば今までタピオカの専門店に行く機会はあまりなかったなと思い、せっかくなので興味本位で観察していたのだが、有名チェーン店であるそのお店の前には絶えず行列が出来ており、店から出てくるお客はみな上機嫌に戦利品の黒い沈殿のあるドリンクを写真に収めていた。なるほど、これがタピオカの『インスタ映え』という奴なのだろう。店をバックに自撮りしている観光客も多く見かけた。意外と男性客も多く、お上りさんのような男の子四人組がはしゃぎながら「タピオカだ!え、寄ってこうぜ!」みたいに盛り上がってたのは見てて微笑ましかった。ただしカップルてめーらはダメだ。

昨今のタピオカブームは凄まじいものがある。街頭でもSNSでもタピオカを見かけない日はほとんどないし(それは言い過ぎ)、店によっては二時間かけて並んでやっと購入できるようなところもあるらしい。タピオカ愛好家たちの凄まじい熱量を感じる。

私は特別タピオカが好きというわけではないが、さりとて別に嫌いというわけでもなく、これといってタピオカに対して深い情熱を持たない。たまにデザート感覚でタピオカドリンクを飲むこともあれば、タピオカを全面に押し出した広告にゲンナリすることもある。のび太にとってのどら焼きのようなものだ。どんなにドラえもんの好物であろうと、のび太にとってどら焼きはただの和菓子の一つに過ぎない。

ただ、そんなのび太ドラえもんが美味しそうにどら焼きを食べていれば嬉しいに違いない。私だって、嬉しそうにタピオカ片手に店を出てくる女子高生たちを見て嫌な気持ちになりはしない。いや、女子高生であることは関係ない。誤解だ。離してくれ。

好物は人それぞれだ。タピオカ入りミルクティは確かに私も美味しいと思うし、大好きで足繁くタピオカ屋に通う人々の気持ちも分からなくはない。二時間も並んでタピオカ入りドリンクを購入するなんて、もう買い食いの範疇ではない。立派な予定だ。その熱意に素直に敬服する。

けれど、タピオカに関してあれこれ問題になっているのは、やはりポイ捨てなどのマナーの悪い人たちが一定数存在するからなのだろう。タピオカが好きなわけではなく、タピオカを写真に収めている自分が好き。あとはどうでもいい。残った黒いデンプンの固まりはそこらに捨て置け。そりゃ気分を害する人たちもいる。

こういった一定数のバッドマナー勢のためにタピオカブーム丸っと否定的に語る人も多く存在するが、多分真のタピオカ愛好家たちも迷惑被っているのだ。タピオカ映えのために二時間店に並んでいる諸君は、今一度その黒いつぶつぶが映えに値する品かよくよく考えて欲しい。そして値すると判断したのなら、そのブームの火付け役となったであろう愛好家の方々への敬意と最低限のマナーを忘れないでほしい。

 

好きなものでも節度を持って。SNS映えはより節度を持って。

 

2019.06.13 都内某所にて

『真偽』とか、『新古』とか。

天気予報を見て折り畳み傘を鞄に忍ばせるところまではなんとかなったが、雨で気温が下がることにまでは気が回らずバリバリの半袖で出掛けたせいですこし肌寒かった。一勝一敗。

 

今日の大学の講義で、複製技術時代における芸術のあり方についての話があった。

ヴァルター・ベンヤミンは著書の中で、複製技術時代における芸術作品というものは、それが「いま」「ここに」しかないという芸術作品特有の一回性を失ってしまっていると述べ、そこから「ほんもの」という概念の崩壊について憂慮している。

 

ひとつの芸術作品が「ほんもの」であるということには、実質的な古さをはじめとして歴史的な証言力にいたるまで、作品の起源からひとびとに伝承しうる一切の意味がふくまれている。ところが歴史的な証言力は実質的な古さを基礎としており、したがって、実質的な古さが人間にとって無意味なものになってしまう複製においては、ひとつの作品のもつ歴史的証言力などはぐらつかざるをえない。もちろんここでぐらつくのは、歴史的証言力だけであるとはいえ、それにつられて作品のもつ権威そのものがゆらぎはじめるのである。』(W・ベンヤミン_「複製技術時代の芸術」)

 

彼はここで失われていくものを「アウラ(英語で言うところのオーラ)」という言葉で表現している。

授業中はなんとなく、ほぉんという感じで話を聞いていたが、しかし現代における芸術はどうだろう。もはや絵画はデジタルなカンバスの上に電子の絵の具で描かれるようになった。複製は当たり前どころか前提としてデザインされている節すらあるし、“実物“すら存在しない絵画だって珍しくない。全てはデータの海に浮かぶ一種の記号でしかないのだ。

むう。では、電子機器時代における芸術作品のアウラとはなんだ。もはやその考え方自体がナンセンスなのだろうか。芸術の一回性なんて、現代においてはなんの意味も持たないのだろうか。

ああ、随分と難しい疑問にぶち当たってしまったようだ。ダメだ、お手上げ。私はイヤホンをつける。こういう思考の坩堝に足を取られた時は忘れてさっさと帰るのが一番だ。私は講義室を後にした。

大学の帰り道、所用でブックオフに寄った。普段はあまり中古品の買い物は気乗りしないのだが、金がないのだから仕方がない。

別に私が新品厨というわけではない。中古の漫画や本を買い漁ることもあるし、ゲームソフトは中古で探すことも多い。長く使うハードや、きちんと製作者に金を落としたい買い物であれば新品で購入するよう努めているが、金が無尽にあるわけでもないので中古と新品の買い物はうまく使い分けるようにしている。新品には新品の、中古品には中古品の良さがあると思う。

しかし、新品・中古。この概念も、いずれ電子の海に溶けて消えていくのだろうか。デジタルな資産においては、ものの物質的な新しい・古いという概念が存在しない。生み出された時代における新しい・旧いは存在するかもしれないが、少なくとも経年劣化という物質の最大の天敵がデジタル世界に訪れることはない。誰かの手垢が付くも何も、全てはデバイス上のデータであって、その授受がいつどこでどれだけ行われようと、データの劣化というものは基本的に起こりえないわけで。だからこそ、電子の世界においては「中古」という概念も風化していくように思える。いや、どうなんだろう。むう、また難しい疑問に引っかかってしまった。

はい、やめやめ。答えの出ない疑問に時間だけが徒らに浪費される。やな疑問はぜーんぶゴミ箱に捨てちゃえってどこかの魔女も言ってた。こういうのはもっと時間と気持ちに余裕があるときに考えればよろしい。

真偽も新古も、少なくとも今日明日でなくなる概念ではない。アウラの話だって少なくとも今はこと芸術に限った話だし、ブックオフが明日には影も形もなくなっているわけでもない。もっとゆっくり、じっくり考えていけばいい問題だ。

 

だが、思考の片隅に置いてはおかねばなるまい。あらゆるデジタル化の進む、現代を生きるものとして。今がそういう時代なのだと、肌で感じながら。

 

2019.06.11 都内某所にて

『無駄』とか、『余裕』とか。

分厚い本とかって買うだけで満足しちゃったりするよね。そして積ん読へーーー。

 

今日は一日バイトだったのだが、本当にやることがなくて数時間ただぼーっとしているだけだった。

こんなことなら店頭に顔のいいマネキンでも置いてた方が良かったのではなかろうか。給料もらってる側が文句を言うのも変な話だが。

お客さんが来た時のために人がいなければならないのは分かるけれど、それにしたって人が来ないと本当に意味がない。特に雨脚も強い平日の昼間なんて一人二人スタッフが待機しとけば十分な気もするのだが。

何をするにつけても、余裕や余剰は大事だ。集団で仕事をする時でも、個人でスケジュールを建てる時でも、そこがあるとないとで、全体の柔軟性は大きく違ってくる。余地を残すと言うか、何か別の事に割けるキャパシティを常に確保しておくと言うことが、いざという時に明暗を分けることも多々ある。

しかし、意味のないゆとりはただの無駄である。“いざ”という時というのは、あくまで緊急の場合。急なアクシデントにも対応できるようにという話であり、アクシデントとはいつもいつでも起こるというものではない。アクシデントが起こらない時、そのゆとりは結局もったいない余剰となってしまう事だってある。いや、むしろそう言った場合の方が多いかもしれない。

だからこそ、そのゆとりはあくまで「余地」にとどめておく事だ。お客が来ることを想定して店頭に立ちつつ、しかし片手間でもいいから別の仕事を行う。それだけで仕事の効率も上がるし、来たる”いざ“に対応する余地も生まれる。一石二鳥だ。

余裕とは、つまりそういうことなのだと思う。

しかしながら、ちょうどいい塩梅というのは何につけてもやはり難しい。この余裕と無駄の境界線も、見極めるのは非常に骨が折れる。けれど、だからこそ、この見極めがきちんと出来るようになれば、きっともっと生きるのが上手になるのではないかと、そんなことを思ってしまう。

 

無駄の多い人生を、余裕のある生き方に変えていきたいものだ。

 

2019.06.10 都内某所にて

『好きなもの』とか、『生き甲斐』とか。

PSストアの六月セール、心惹かれるタイトルが多すぎて困る。

 

今日は久しぶりに、一日とことん“好きなもの“囲まれた一日だった。

好きなことをするのは楽しいし、好きな作品にふれるのも英気を養える。ここ数日、今日のために頑張ってきたと言っても過言ではないほど充実した一日だった。

そう言った「好き」を一人で楽しむのも悪くないけれど、同好の士と共に趣味に興じるのもまた一興。他の人の「好き」という感情のパワーに触れると、また自分の熱意も高まるというものだ。今日はそう言った意味でも、非常に充実していたように感じる。

ところで突然だが、貴方の生きる意味とは何かと問われた時、人は一体どんなことを思い浮かべるだろう。

難しい質問だと思う。これが生き甲斐だ!と断言できることは、なかなか思いつくものではないだろう。家族、友人関係、仕事が生き甲斐という人だっているかもしれない。思い浮かべるものは、きっと人によってそれぞれだと思う。

けれど、その生き甲斐に共通するものがあるとすれば、それはきっと「好き」なことであるということであろう。誰しも嫌いなことに、一度しかない人生を捧げたいとは思わないはずだ。私も生きる目的や目標は数あれど、その原動力は何かと問われれば、間違いなく「好きなこと」をあげる。焼き鯖を食ってる瞬間、面白い漫画を読んでる瞬間、友達とゲームをしてる瞬間、可愛いものを愛でてる瞬間。そう言った一つ一つが、私の生きる理由で、原動力だ。

確かにこう言ったことは、人生の意義や目標を前にした時、息抜きや箸休めのようなものでしかないかもしれない。好きなことをしてばかりでは、生きていけないかもしれない。この人間社会を生きていく上で、果たさなければならない責務やこなさなければならない課題なんて山ほどある。

けれど、これは私たちの心のエネルギーだ。それは、誰にも奪う権利のないもの。自分で、確かに守り続けていかなければならないものだ。どんなに忙しくても、辛くても、好きを手放してはいけない。きっと心がガス欠を起こしてしまう。

スケジュール帳の週末の欄に、一つ好きなことに関する予定が入っているだけで、いつもよりずっとやる気が出る。人間、そんなものだ。「好き」のパワーは偉大である。

 

今日も明日も、自分の「好き」に正直に。

 

2019.06.09 都内某所にて