『備忘録』だとか、『日記』だとか。

日々のあれこれを記録する自己満足日記帳

『真偽』とか、『新古』とか。

天気予報を見て折り畳み傘を鞄に忍ばせるところまではなんとかなったが、雨で気温が下がることにまでは気が回らずバリバリの半袖で出掛けたせいですこし肌寒かった。一勝一敗。

 

今日の大学の講義で、複製技術時代における芸術のあり方についての話があった。

ヴァルター・ベンヤミンは著書の中で、複製技術時代における芸術作品というものは、それが「いま」「ここに」しかないという芸術作品特有の一回性を失ってしまっていると述べ、そこから「ほんもの」という概念の崩壊について憂慮している。

 

ひとつの芸術作品が「ほんもの」であるということには、実質的な古さをはじめとして歴史的な証言力にいたるまで、作品の起源からひとびとに伝承しうる一切の意味がふくまれている。ところが歴史的な証言力は実質的な古さを基礎としており、したがって、実質的な古さが人間にとって無意味なものになってしまう複製においては、ひとつの作品のもつ歴史的証言力などはぐらつかざるをえない。もちろんここでぐらつくのは、歴史的証言力だけであるとはいえ、それにつられて作品のもつ権威そのものがゆらぎはじめるのである。』(W・ベンヤミン_「複製技術時代の芸術」)

 

彼はここで失われていくものを「アウラ(英語で言うところのオーラ)」という言葉で表現している。

授業中はなんとなく、ほぉんという感じで話を聞いていたが、しかし現代における芸術はどうだろう。もはや絵画はデジタルなカンバスの上に電子の絵の具で描かれるようになった。複製は当たり前どころか前提としてデザインされている節すらあるし、“実物“すら存在しない絵画だって珍しくない。全てはデータの海に浮かぶ一種の記号でしかないのだ。

むう。では、電子機器時代における芸術作品のアウラとはなんだ。もはやその考え方自体がナンセンスなのだろうか。芸術の一回性なんて、現代においてはなんの意味も持たないのだろうか。

ああ、随分と難しい疑問にぶち当たってしまったようだ。ダメだ、お手上げ。私はイヤホンをつける。こういう思考の坩堝に足を取られた時は忘れてさっさと帰るのが一番だ。私は講義室を後にした。

大学の帰り道、所用でブックオフに寄った。普段はあまり中古品の買い物は気乗りしないのだが、金がないのだから仕方がない。

別に私が新品厨というわけではない。中古の漫画や本を買い漁ることもあるし、ゲームソフトは中古で探すことも多い。長く使うハードや、きちんと製作者に金を落としたい買い物であれば新品で購入するよう努めているが、金が無尽にあるわけでもないので中古と新品の買い物はうまく使い分けるようにしている。新品には新品の、中古品には中古品の良さがあると思う。

しかし、新品・中古。この概念も、いずれ電子の海に溶けて消えていくのだろうか。デジタルな資産においては、ものの物質的な新しい・古いという概念が存在しない。生み出された時代における新しい・旧いは存在するかもしれないが、少なくとも経年劣化という物質の最大の天敵がデジタル世界に訪れることはない。誰かの手垢が付くも何も、全てはデバイス上のデータであって、その授受がいつどこでどれだけ行われようと、データの劣化というものは基本的に起こりえないわけで。だからこそ、電子の世界においては「中古」という概念も風化していくように思える。いや、どうなんだろう。むう、また難しい疑問に引っかかってしまった。

はい、やめやめ。答えの出ない疑問に時間だけが徒らに浪費される。やな疑問はぜーんぶゴミ箱に捨てちゃえってどこかの魔女も言ってた。こういうのはもっと時間と気持ちに余裕があるときに考えればよろしい。

真偽も新古も、少なくとも今日明日でなくなる概念ではない。アウラの話だって少なくとも今はこと芸術に限った話だし、ブックオフが明日には影も形もなくなっているわけでもない。もっとゆっくり、じっくり考えていけばいい問題だ。

 

だが、思考の片隅に置いてはおかねばなるまい。あらゆるデジタル化の進む、現代を生きるものとして。今がそういう時代なのだと、肌で感じながら。

 

2019.06.11 都内某所にて