『時代』とか、『変わらないもの』とか。
訊き飽きるほど「平成最後」という字面を見てきたけれど、いざ平成も残り数時間というところまで来るとさすがに感慨深いものがある。
やがて、平成31年4月30日が終わり、令和元年5月1日が訪れようとしている。テレビも街も、すっかり祝賀ムードだ。
ここまで明確な線引きをもって時代が変わるというのは、二十数年生きてきた中で初めてのことだ。少し緊張する。
浮足立つ気持ちを抑え、現在友人と軽く一杯やっているところだ。こんなときくらい、楽しい気持ちで過ごしてもバチはあたらないだろう。
今も昔も、こういった節目の瞬間というものが、歴史には多く存在してきたのだと思う。元号が変わるというのもそうだし、世紀の変わり目などもそうだろう。
身近な例だと、年の変わり目などの独特の浮遊感、日常からの乖離感などを思い出してもらうと間違いないかもしれない。
しかし、どんなに人間の線引きで歴史が切り替わっても、結局私たちの生活がその場で一転するというようなことは、まず起こらない。そこには、過去から未来に一歩ずつ進む地続きの歴史があるだけだ。私たちのやることは、今も昔も大きくは変わらない。
多分明日になって令和の時代が来ても、今の時代とさして大きく何かが変わることはないだろう。少なくとも、ここ数年は。
ただ、いつか、令和生まれの子供たちが私たちの生活に大きくかかわり始めた時に、もしかしたら時代の変化というものが目に見える形で浮上してくるかもしれないなと、そんなことをなんとなく思う。
「令和生まれはつれいわw」とか舐めたこと言ってる令和生まれをぼかっと殴って「こーれだから令和生まれはよ!」とか抜かす日が、いつか自分にも来るのだろうか。
そう考えると、少しだけ楽しみだ。
元号が変わって、時代が変わっても、変わらず地続きの歴史の上に足跡を残していきたい。
令和でも、どうぞよろしく。
2019.04.30 都内某所にて