『備忘録』だとか、『日記』だとか。

日々のあれこれを記録する自己満足日記帳

『漫画』とか、『映画』とか。

はい、サボった。やい四日坊主。

 

経験上、ここで無理に穴を埋めようとすると、結局総崩れになることが多い。過去に何度もやらかした。面倒くさがりなくせに完璧主義という、意味が分からないくらい矛盾した性格をしている私だ。

サボった分はサボった分だ。4月18日はブログサボり記念日。そういうわけで、今日からまた始めていく。

 

ここ連日、ノートルダムの火災のような不幸なニュースに加え、訃報も続いている。

先日、『ルパン三世』の原作者であるモンキーパンチ先生が永眠された。享年81歳。まだまだ御活躍を期待していた人も多かっただけに、衝撃を受けた人も多かったことだろう。非常に残念なニュースだった。

そして今朝、モンキーパンチ先生に続くように、今度は小池一夫先生の訃報が飛び込んできた。慌てて小池先生のTwitterを開いてみれば、遺族の方の御報告が。そしてそのひとつ前には、小池先生自身の言葉で、モンキーパンチ先生への追悼のツイートが並んでいる。享年82歳。最期まで人のための言葉を紡げる方だったのだと、胸がきゅっと締め付けられた。

お恥ずかしながら、これまでに『子連れ狼』など、小池先生の著書にまともに目を通す機会には恵まれなかった。それでも先生のご活躍は音に聞こえていた。そういえば『ルパン三世』も、原作漫画にふれたことはあまりないかもしれない。

これを機に、もう少し過去の名著に触れる機会を設けていこう。そう、心に決めた。

生きている間に、少しでもたくさんの作品に、触れていきたい。

 

両先生方のご冥福をお祈りいたします。

 

2019.04.19 都内某所にて

 

 

 

以下は昨日書きかけていた記事。
お時間あれば、ついでにどうぞ。

 

 

 

―—『空間』とか、『定義』とか。(4月18日分の記事)

 

朝から後輩と映画を見てきた。

 

内容も面白く、隣で後輩は肩を震わせて笑っていた。そんなか。

しかし、公開してからひと月たつタイトルだからか、はたまた平日の早朝の回だからか、観客は僕と後輩の二人だけ。もしも僕らが観に行かなかったなら、このフィルムは誰もいない空間に寂しく投影されていたのだろうか。そう考えると、なんだか不思議な気持ちになる。

テレビと映画の違いなどを論じるメディア論では、よく視聴空間についての議論がなされる。たしかに、家で気軽に視聴できるテレビと違い、映画は映画館という空間で見ることを前提に作られており、そこに映画の意義や魅力を見出す人も少なくない。数多の無関係な市民が無作為に一つの場に集まり、同じ作品を鑑賞する。その行為こそが、映画を映画足らしめる一つの要素であると論じる人もいる。

しかし、誰にも見られていない映画の放映を、果たして同じ『映画というメディア』の文脈で語ることが出来るのだろうか。誰の目にも映ることなく空間に投影される映像は、それでもまだ何かしらの意味を有しているのだろうか。

その空間を語る言葉を、果たして我々は持ち合わせているのだろうか。

 

人のいない映画館は、なんだか哲学のかおりがした。

 

2019.04.18 都内某所にて