『備忘録』だとか、『日記』だとか。

日々のあれこれを記録する自己満足日記帳

『五月病』とか、『鬱々しい』とか。

Twitterなどでパワーのある140文字を見かける度、毎日頭を絞りながら薬にも毒にもならない文章を書いてることが馬鹿らしく感じる。グダグダと長い脈絡もない文章を書くより、少ない文字数できちんと自己主張できる文章を書ける方が何十倍も価値があると感じる。

けれど、これは訓練。コンスタントに一定量の文章を書き連ねる訓練。

人と比べても仕方ない。今日も今日とて自分のペースで一つ一つ積み上げる。

 

五月ももう終わりのこんな時期になんだが、どうやら妹が少し鬱気味らしい。

去年京都の片田舎にある大学に進学し、この春二年生に進学した妹だが、どうも最近人間関係のあれこれで頭を捻り過ぎて鬱々しくなっているらしい。私と違って不器用なほど生真面目な妹は、たまにこうやって周囲の人間関係絡みで無限に悩んでいることがある。悲しいかなそんなとき、兄である私は実に無力だ。

五月”病“などと大仰に語られることも多いが、そもそも環境の変化で調子が崩れるなんてのは心だけじゃなくて身体にも言える話だし、別に五月だけでなく年中見かける話でもある。夏休み明けに調子を崩す学生の話なんて枚挙に暇がないし、かくいう私も夏休み明けに学校に行くふりして図書館に通っていた記憶がある。人間やろうと思えば年中鬱々しくいられるのだ。何も五月だけが特別鬱然としているわけではない。

妹には、まず周囲の誰かに相談した方がいいとアドバイスをした。遠くの親戚より近くの他人。直接自分の環境に介入できる誰かに相談することが、まずは大事だ。

次に、一定レベル以上の生活水準の確保。妹の場合はこの春新居に引っ越してから部屋の片付けがずっと十分でなかったらしく、この週末、両親監修の元で部屋の大掃除を行ったところ随分気が晴れたという話だった。健全な精神は健全な肉体から。健全な肉体は健全な生活から。きちんと整頓された部屋でよく食べよく寝る。生活の質が精神に与える影響は、私たちが想像している以上に大きいのだ。

しかし本当に、人間あまり考えすぎるのも身体に毒である。

人間は考える葦だ。か弱いながらも深く思考する生き物だ。それは確かに人間を人間たらしめる重要な要素であるだろう。

しかしながら、人間以前に生き物である。辛く苦しい中で、それでも思考を続けなければならない理由はない。どんな状況でも、人は自らの生を最優先に生きるべきだ。にっちもさっちも行かなくなったら誰かに愚痴をぶちまけ、改善策を探して、それでもダメなら全部投げ出して逃げ出せばいい。無責任な発言だと批判もあるだろうが、無責任上等。だれでもない、自分自身の身と心を守れるのは究極的に自分だけなのだ。

最後に、どうしても気分が盛り上がらないなら、無理せず精神科に行くことを勧めた。自分一人で解決する必要はない。プロの力も、薬の力も、必要に応じて利用していくべきだ。

 

真面目に不真面目。ほどほどに、無責任に生きていこう。

 

2019.05.26 都内某所にて